先日記述した不登校の問題。
エリクソンの発達課題理論からも考えることができました。
1、登園拒否や不登校の悩みが増えている
「本当は、とても楽しいはずの入学式や学校がイヤだと言うのには、それなりの理由があるがず。両親の過剰な期待に不安をいだいたり…(略)…子どもは、「イヤ」と言う表現しかできないけれども、学校も幼稚園と同じ様に、自分の安らぐ居場所のないところだと感じているのではないか。過去に、幼稚園でそのようなことがなかったかどうかを確かめ、安心感を持てるように配慮してやることがだいじ」
相談の不登校や引きこもりの実態を聞き取る中で、共通して浮かび上がるのは、幼・保育園時期に「行きたくない」「いやだ」と母親に訴えたにもかかわらず、それを聞き入れてもらえず、泣きながらバスに乗せられた、泣き叫ぶのに玄関に押し込まれたということ繰り返されていたことである。
2、エリクソンの「子どもの発達課題」の教えに学ぶ
「赤ちゃんが望んでいることは、どんなことでも無条件に満たしてあげるべきか、そうしないほうがよいか」
赤ちゃんを二つのグループに分ける
Aグループ「泣いてもなにをしても深夜には授乳を決してしない。昼間も規則正しく乳児院のやり方で定時授乳を守る」
Bグループ「子どもが望むたびに授乳をする。授乳の他に子どもの要求にしたがって「あやし」「だっこ」し「遊び相手」となるなど、子どもの希望を可能な限り全てあげるような育児を心がける」
Aグループでは、早い赤ちゃんは3日で泣くのをやめ、大抵は一週間前後で翌日の朝まで授乳を待てるようになった。
しかし、その後、何年にも及研究調査と追跡観察の結果、次のようなことが判明した。
・3日位で泣きやんだ子どもは忍耐強い子になったのではなく、困難に対し早くギブアップする子だった
・いつまでも泣き続ける赤ちゃんの方が、本当は忍耐強い子だった
・3日にしろ一週間以上超えたにしろ、泣きやむしかなかったということは、子どもの心に周囲の大人や自分が生きる世界に対する根深い「不信感」と自分に対する「無力感」のような感情をもたらしたということがいえる
・一方、深夜であろうとなかろうと、泣くことで要求を表現すれば、周囲の人によってその要求が満たされていることを体験し続けた赤ちゃんは、自分を取り巻く周囲の人や世界に対する「信頼感」と、自分に対する基本的な「自信の感情」が育まれる
育児をする大人の都合に合わせて無理やり、規則正しくお乳を飲ませようとすれば、それは赤ちゃんにとって苦痛な授乳となるもので、そのような育児は、基本的な信頼感を育てることにはならない
私も
母が私が生まれて半年で橋本病になったということもあり
タオルに括り付けられた哺乳瓶を自分で飲むほど
物分かりがよく手がかからなかった子だったそうだ。
先日
「過干渉がすぐにギブアップする子を育てているのではないか」
ということが出ていたが
最初の努力である「泣く」という努力が報われなかった子にとって
“周囲の大人は自分が生きる世界に対する根深い「不信感」と
自分に対する「無力感」のような感情“
が物心つく前にできてしまうというのはどうしても
その子本人の責任ではないような気がしてならない。
3、親に愛されて自分の基礎が育まれる
子どもにとって自分が親に愛され、大切にされていることが実感できるように育てられることが、まず、何よりだいじなことで、このような育児によって「自立心」の基礎がつくられる。
赤ちゃんができる努力は、泣いて自分のしてほしいことを訴えることだけ。乳児が「泣く」ことは自分の意思や気持ちを伝えるコミュニケーション。
この時期、欲求をかなえてもらうことができた子どもは、母親を母親を通して人間に対する「信頼感」と自ら大切に思う感情が培われる。
自力でできない時には助けてもらうことができるという安心感が情緒を安定させ、さらに、大人(他者)の願いや要求を受け止め、受け入れる感性を身につけることになる
逆に、「泣く」と言うサインを発しても助けてもらず、望みがかなえられることが少なかった子供は、いつも不安感と孤独感にさいなまれ、母親は頼りにならないものとしての「あきらめ」の気持ちが蓄積される。これが人間不信となり、…(略)…それは父親に対しても向けられ、さらに他者へと広がり、人間関係の中で他人との協調性をもてず、情緒不安をつくりだすものと思われる。
幼少期に、「泣く声」の意味を聞き取ってもらえず不快感や孤独感にさらされた子どもは無力感にさいなまれ、その後、成長するにつれて母親の言葉にも鈍感になりその願いを受け止めようとしなくなるばかりか、他人の痛みや気持ちを感じられなくなる。
私は赤ちゃんの時
全然泣かない子だったという。
どこで泣かなくなったのか
それは生まれつきなのか
それは私にわかる話ではないが
“自力でできない時には助けてもらうことができるという安心感“
は私にはあまりない。
先日の記事では
“母親が誰にも頼らずにいると
子も頼るべきではないのだと学ぶのではないか“
と言っていたが
これもまた
乳児期の経験によって培われるものなのか…
5、今、子供らしさを奪う子育てに気づく時
もっとお母さんの胸に抱かれて愛を愛を感じていたい、それが許され認められて当然であるべき年齢である。そのような子供を3才という年齢に線引きをして幼稚園に入れなかればならないことは、何のためなのであろう。母親が外に仕事に行っているためというのであれば仕方がないが、それは大人の都合である。
子どもの健康が回復してからでもよいのにそれが待てないのは、みんなと同じ様な教育環境の中に入れなければ遅れをとるのではないかとい先入観を多くの大人が持つからだと思う
お母さんが休園させたいと言うと「はじめは、みんなこうなのだ」とか「そのうち、あきらめるから」と、無抵抗な子どもが「あきらめる」とは何を意味するのか考えもしない若い教師が、物知り顔に言うのにしたがってしまったのである。
子どもは押さなければ幼いほど一人ひとり個別に触れ合ってやらなければならないと努めるのが教育者の常識である
子どもは「イヤ」と伝えても受け入れられなければ、防衛本能として体の不調によって表現するしかなくなるのである。
教師には子どもの「安全」を守り「安心」を与える義務と責任がある。
教育現場が「教え込み」と「管理」、教師の立場を守ることを優先させた結果、子どもは口と心を閉ざし、不信と憎悪が…(略)…爆発するようになった。
現在の教育は
みんなと同じであることが良い
のような教育となっているが
幼・保育園に通わないことの何が悪いのだろうか。
確かに幼稚園時代からの友達というのももちろんあるわけで
人間関係を構築していくという意味で
幼・保育園に通うことが好きな子であれば
通わせることに否定はもちろんしない。
でもそれはサークルと同じように
「入らない」という選択肢をとることも可能なのだろうし
それよりも家にいる家族に思う存分甘えたいんだ
というのであれば、
それを叶えてあげたって良いのではないかと思う。
学校現場においても…
私自身
自分が自分が思ってもいないようなことを
「教え込み」や「管理」の一環として
指導しなければならないことは
とても苦痛だった。
もっと生徒には弱音を吐いて欲しいし
宿題や講習参加を押し付けるような教育ではなく
もっと一人ひとりに合った指導をしていきたかった…
6、早過ぎる幼児教育は社会性を育てられるか
現在、幼児教育に期待する課題に「社会性の育成」があげられる。少子化に伴い、子ども同士の日常的な触れ合いがとても難しくなっている。子どもは子どもに刺激を受け、人間らしく発達するとの考えから、少しでも早く集団生活を経験させ「社会性」を身につけたいというのが大方の願いである。社会性とは、「人間が本能的にもっている集団性」とか「他人を思いやる心」と考えられるが、多くの大人が、子どもが早いうちに集団の場で教育を受けると、疑いなく社会性が育つと思っているようだ。
子どもは親に甘えるべき時期が許され、はじめて他人に対する信頼感と事故に対する自信が生まれ、それが自立心の基礎になるのである。その発達課題を省略し、親からの早すぎるつき放しが行われてはいけないだろうと思う。保育・幼稚園に入れた場合でも、母親に代わって「甘え」や「安心」、「安全」が与えられ、子どものありのままが受容される教育環境があるならまだしも…(略)…
発達段階に合わせた育児を行っていくことが大事。
三歳になるまでは思う存分甘えさせてあげて、
基本的な信頼感、安心感を与えてあげること。
それができないような環境にあるならば、
“母親に代わって「甘え」や「安心」、「安全」が与えられ“るような
場所が気軽に利用できるような施設・環境ができれば良いなと思う。
現在、保育士や教師の成り手不足が問題とされているとは思うが
親が保育士や教師に求めることが多すぎることが問題なのではないかと思う。
本来家で行うべき人間教育の面を保育士や教師に求められては
幼・保育園や学校で本来行うべき業務ができなくなってしまう。
そんな状況で「ちゃんと教育してくれない」と言うのは
あまりにも無責任な話ではないでしょうか。
私は前述する
0〜3歳のための
母親に代わって「甘え」や「安心」、「安全」が与えられるような
幼・保育園に代わるような
はたまたうまいこと育児をしてきたような
おじいちゃんおばあちゃん方が活躍できるような
そんな環境が作られることを期待します。
[参考]
『幼児教育を考える 子どもの声がきこえますか 幼児教育の不登園について考える 大人は子どもの声を受け入れる余裕を』野口 良行