福岡の九州国立博物館へ、長沢芦雪展を観に行ってきました
久々の福岡
三連休だったこともあって、博多駅も太宰府も、これは、、!という人出でした
コロナん前に戻った、といえばそうとも言えるのかもしれないけど
あの時間がチャラになってるかと言えば、そうではない気もして
みんな、何かしらの違和感を抱えて、忘れるように今を楽しむぞという気合を持って集まってるような
人混みはあんまり好きではないけど、そんないじらしさを感じながらまみれていました
いつもより暖かい2月
雨や曇りが続いた中での、垣間見える青空
梅が枝餅の焼き立てのにおい
神様の領域へと吸い込まれていく人の波
笑顔で写真を撮るお父さんと肩車の女の子
飛び交う中国語
すぐ近くまでトトトっと寄ってくるセキレイは、餌をもらい慣れてるのか
満車表示ばかりの駐車場
警備員さんの車さばきは、無駄がなくて抜群で
あ、梅の甘いかおり
境内のクスノキは、いっぱいに何かを発散していて
何枚も、何枚も
頭の中でシャッターを切る
手水はちょうどよい冷たさで、気持ちがいい
ああ、気持ちがいい
長沢芦雪の作品を、こんなにまとめてみたのは初めてだった
46歳で亡くなったと書いてあったが、醸し出す空気が比較的若々しく
だからなのか、見終わった後も全然疲れていなかった
この人の描く顔がいい
動物も人も、キャラがいい
お寺に奉納されたでっかい襖絵も、生き生きとして、どこか可愛らしさすら感じるのだ
芦雪さんが生きたのは、伊藤若冲、池大雅、曾我蕭白、与謝蕪村など、歴史に名だたる日本画家が多発的に現れた奇跡の時代で
しかも、師匠は円山応挙だというから、どういうことなん??と思う
展示の最終章は、そんな同時代の方々の作品も列挙してあり、見応えはもちろん、その持ち味を比較して楽しむことができる
それぞれがひじょうに個性的なのだが、芦雪さんの絵をみるにあたり、描く人の形の捉え方というのは、当然ながらすごく違うんだと思った
その人の持つ目が違うから
例えば、掛け軸の孔雀
色の使い方や構図、筆使いなど、もちろん色んなことが違うのだろうが、その形の捉え方が違う
それは、描く人の目なのだということを、今更ながらとても感じた
芦雪さんの写し取る形は伸びやかで、わたしの心まで、絵の中の竹のようにすくすくと育つ気がした
んな訳で、いつもはわりかし出口を出ると、だはーっと疲れてるので、そのままお茶して帰ろーみたいな流れが多いのだが、今回は常設展の特集展示、刀展までしっかりみて帰った
懐に入れる太刀と刀の向きの違いに、おおっっ!となった
外に出た
まだまだ1日は終わらない
少しうるりとした空気が、空の青をピカピカに光らせている
テイクアウトで、安定のホットコーヒーを買うか、いやまて、ここは普段絶対いかないであろうゆずカカオラテにするか
どこかへ行きたい、の「どこか」の中に、わたしはいる
自分の希望を叶えてあげるのは、自分だ
芦雪さんの襖絵のトラのように、今にも、いつでも絵の中から飛び出しまっせ、というワクワク感を全身にまとい
またどこかへ、小さな旅に出ることにしよう
この一歩から