懐中温泉です、
歴史シミュレーションその35
第十七話 将軍の座を開く
京の空は、夏の湿り気を含みながらも、
どこか薄暗かった。
寺の甍と公家の屋根が重なり合うその街に、
「将軍」という名の座が、長らく宙に浮いた
ままになっていた。
足利義昭。
信長により京を逐われ、 各地を流浪しながら、
なお「幕府再興」の夢を捨ててはいない男。
その男のもとへ、一通の書状が届いていた。
春日山より。
足利殿。
九頭竜川にて信長と刃を交え、
今や北陸・関東の地において、
上杉の旗が一定の広がりを持つに至りました。
仏法・正法を中心とする秩序を再び
立て直すためには、将軍家の名と座が、
どこかに静かに据えられておらねば
なりませぬ。
我、越後より参りて、
将軍家と「幕府再興の形」について語りたく
存じます。
義昭は、その文をじっと見つめていた。
「上杉謙信か……」
かつて、義昭は信長の助けを得て京に入り、
そののち信長と対立し、 京を逐われる
こととなった。
信長は、義昭の「古い幕府」に代わり、
自らの「天下布武」を掲げた。
その後、義昭は毛利を頼り、 西国で生き
延びつつも、 再び京に戻る機会を窺っていた。
「上杉は、『古い秩序』を愛する男だと聞く」
義昭は、静かに呟いた。
「しかし、ただ古きを望むのみならず、
越後・関東・北陸にて新たな分国支配を
試みている。
その男が、『将軍の座』を求めて来る。
さて、この座をどこに置くべきか」
やがて、春日山より上杉謙信が義昭のもとを
訪れた。
場所は京ではなく、西国の一角――毛利の
庇護の下にある静かな寺である。
謙信は義昭の前に座し、深く礼を取った。
「足利殿。 越後の上杉謙信にございます」
義昭は、小さく頷いた。
「上杉殿の名、 手取川・九頭竜川の戦においても、
京に噂として届いておりまする。
信長を押し返した男、
としてな」
謙信の目には、誇りよりも、
「責」の影が宿っていた。
「押し返した、は事実にございます。
しかし、天下を一度に取ったわけでは
ございませぬ。
それゆえ、 『誰が天下を預かるべきか』
という問いはなお残っております」
義昭は、少し笑った。
「それが、将軍家の座、ということか」
「さよう。
信長は、『天下布武』を掲げておられます。
寺社の特権を削り、
国ごとの古い秩序を壊し、
新たな秩序を作ろうとしている。
上杉は、『仏法・正法を中心とした秩序』を
掲げております。
足利殿の祖先が築かれた幕府の流れを、
もう一度清らかに戻したく思っております。
ここで、 将軍家の座が、
いずれの旗の下に置かれるかが
問われます」
義昭は、黙って聞き入っていた。
「上杉殿は、 将軍の座をどこに置きたいとお考えか」
「京にて置かれるべき座であることは変わり
ませぬ。
ただし、
その京に『どちらの旗が重きを置くか』は、
今しばらく定まらぬと見ております」
謙信は、言葉を慎重に選んだ。
「ゆえに、 当座、将軍家の座は『名のみ』とし、
地においては――越後と京とを結ぶ
「仮の座」を据えたいと存じます」
義昭の眉が動いた。
「仮の座、と申されますか」
「足利殿のお名前を、
上杉の国において『将軍』として掲げる。
越後・関東・北陸の政においては、
上杉が『将軍家の代行者』として振る舞う。
京においては、
信長が『天皇の御座所を守る者』として
振る舞う。
その二つを、
しばし並べて置き、そのうえで、
いずれ『どちらか一つに収束させる戦』
が来る」
義昭は、ふっと笑った。
「上杉殿は、 自らを『将軍』とは
名乗らぬのだな」
「名乗れば、 信長と同じ土俵に上がることに
なりましょう。
私は、『義によって刃を振るう大名』に
過ぎませぬ。
しかし、 足利殿の名の下で『仏法・正法』
の秩序を再び整えることは、私の務めだと考えて
おります」
