懐中温泉です、
道後温泉駅のホームに降りた瞬間、結は、
有馬とはまったく違う種類の「湯気」を
感じました。
硫黄や鉄の匂いではなく、どこか軽い、
人と町の気配のほうが先に立つ空気
でした。
ホームから階段を下り、改札を抜けると、
ガラス越しに路面電車の車体と、
その向こうにからくり時計の塔が
見えています。
駅舎を出てすぐの小さな広場には、
丸い足湯とベンチがあり、その向こうに、
洋風の屋根を載せた道後温泉駅の
建物が振り返るように立っていました。
結は、いま自分がいるのが山の奥の
温泉場ではなく、「市電の終点の、
ほとんど町なかの湯」であることを、
足の裏からじわじわと実感しました。
有馬のときのような「山をひとつ越えて
きた」という感覚はなく、むしろ、
普段の生活圏からそのまま延長して
きたような、妙な近さがありました。
待ち合わせの時間より少し早く着いた
ので、結は駅前の足湯のそばの
ベンチに腰を下ろしました。
足湯の縁には、すでに観光客らしい
若い二人組が、ズボンの裾をたくし
上げて湯に足を入れています。
その後ろを、キャリーケースを転がした
家族連れが横切りました。
そして、さらにその向こうから、通勤
なのか、スーツ姿の人がふつうの足どりで
駅のほうへ向かっていく。
「湯治に来た、という感じがしないな。」
結は苦笑しながら、旅行かばんの
持ち手を握りなおしました。
有馬の駅からバスに揺られて坂道を
上っていったときの、「日常からいったん
切り離される」感じとは違って、ここでは、
日常と温泉とがまだ区別されないままでした。
からくり時計の塔が、ちょうど正時を
告げるところでした。
低い電子音とともに、塔の側面がせり
上がり、道後ゆかりの人物をかたどった
人形が、ゆっくりと姿を現します。
観光客たちがスマートフォンを構え、
子どもたちが指をさして歓声をあげる。
その光景を見ながら、結は「ここでは、
“湯治の始まり”も、観光のざわめきの
なかに紛れ込んでいくのだろう」
と思いました。
「結。」
声に振り向くと、佐和が、小さなキャリー
バッグを引きながら立っていました。
薄手のコートの下には、見慣れた
ストールが巻かれています。
有馬で別れたときとさほど変わらない
姿ですが、駅前の明るさのせいか、
表情はあのときよりも軽やかに
見えました。
「お疲れさまです。ちゃんと着けましたね。」
「ええ。市電でそのまま来られると、
“ほんとうに湯治に来たのかな”って、
まだ少し実感が薄いですけど。」
佐和は笑い、「有馬だと、『山を越えて
別世界』って感じでしたもんね」と
うなずきました。
「道後は、“町の中の温泉”ですから。
そこがまた、いいんですけど。」
二人は駅舎をあとにし、からくり時計の
前の小さな広場を横切りました。
足湯の湯面には、空の白さと時計台
の一部が揺れて映っています。
「有馬では、駅から坂を上るあいだに、
“これから三週間、湯治をするんだ”
って、自分に言い聞かせる時間が
ありました」と結は言いました。
「ここではもう、あっという間に“湯”が
目の前にあって、その手前に足湯と
観光客がいる。」
「だからこそ、意識して“これは湯治だ”
と決めないと、ただの小旅行になって
しまうんですよね」と佐和が応じました。
「今回は、一回り七日。その代わり、
この先何度か通う前提で、“道後での
自分の型”を見つける、ということで。」
広場を抜けると、道後商店街のアー
ケードの入り口が見えてきました。
アーチ状の看板には「道後ハイカラ通り」
と書かれていて、その奥に、土産物屋と
カフェがぎっしり並んでいます。
「有馬の坂道とは、またずいぶん違う
風景ですね。」
結は、アーケードの向こうに見える人波を
見やりながら言いました。
有馬の細い石段と木造の旅館の連なりを
思い出すと、ここでは、光がもっと
水平に、すとんと通りの奥まで
抜けていく感じがします。
