懐中温泉です、
歴史シミュレーションその10
「上杉さまが来た――」
道の脇で、年老いた男が小さく手を
合わせる。
その後ろで、若い者たちが、目だけで
軍勢を追っていた。
「義の殿様が、来た」
誰かがそう口にする。
それは、越後・春日山で聞いた「謙信像」と、
ここ北陸での「謙信像」が、静かに重なる
瞬間だった。
一揆の列に加わる者たち
加賀の一角に、一向一揆の旗が立っていた。
白地に黒字の念仏旗。
上杉軍がその前に止まると、僧形の男が
一歩進み出た。
「越後の上杉どの」
声は低く、しかしよく通る。
「われら、織田の暴政に耐えかねて久しい。
この地を焼かれ、寺を壊され、人を殺されて
きた。
その恨み、骨髄に達する」
謙信は、馬上から男を見下ろした。
「その恨みを、今ここで“天下の形勢”に
変える気はあるか」
僧は、目を細めた。
「……それは、義にかないましょうか」
「義にのみかなう」
謙信の答えは、短く、重かった。
「足利将軍家を京に戻し、
仏法・正法を中心とする秩序を立て直す。
そのための戦に、そなたらの刃を借りたい」
「上杉の刃は、仏法のために振るわれるか」
「仏法のために振るう。 私欲のためではない」
沈黙。
やがて、僧は深く一礼した。
「ならば――加賀・越前の一揆勢、
上杉の軍に合わせて動こう」
念仏旗が風を受ける。
その後ろから、槍を持った百姓たちが
列をなして現れた。
鎧は粗末で、鉄砲も多くはない。
しかし、目の奥に燃えるものは、侍と
変わらなかった。
「これが、北陸の“火薬”だな」
上杉軍の一人が、半ば冗談めかして
言った。
だが、それは真実だった。
加賀・越前の一揆勢が、上杉の隊列に
重なる。
北陸を南へ突き進む一本の槍が、
少しずつ太く、重くなっていった。
九頭竜川が見える場所まで
越前に入ると、空気が変わった。
加賀とは違う湿り気。
海から吹き上げる風と、山から降りてくる
風がぶつかり合う場所。
やがて、前方に川のきらめきが見え
始める。
九頭竜川。
大きく蛇行しながら平野を横切り、
日本海へと注ぐ川。
織田軍にとっては北陸防衛線の要であり、
上杉軍にとっては、京へ向かうために
越えねばならない「境界線」でもあった。
「ここが、決戦の場になるか」
陣頭に立つ武将が、川面を見つめる。
水量は多く、流れは速い。
しかし、渡河不可能なほどではない。
「信長も、ここで待つだろう」
謙信の声には、確信があった。
信長は、播磨や丹波で苦しむ味方を救う
よりも、九頭竜川で上杉を迎え撃つ道を
選ぶ男だ
そう、謙信は見ていた。
「いずれ、柴田勝家が前線を張る。
その背後に、信長本隊が控える」
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
