懐中温泉です、
歴史シミュレーションその12
川沿いに上杉軍が展開する。
右翼に、越後・越中の精鋭。
左翼に、一揆勢と能登・加賀の兵。
中央に、謙信本隊。
後方には、鉄砲隊と予備兵。
さらに、その後ろに補給隊。
川を前にして、 「待ち構える」のではなく、
「渡るための布陣」を敷いていた。
同じ頃、信長側の陣でも、空が見上げられ
ていた。
「殿、雨の気配にございます」
「知っておる」
信長は、少しだけ口の端を上げた。
「上杉は、雨を味方につける。
ならばこちらは、雨の中でも撃てるように、
鉄砲の火を絶やすな」
柴田勝家に向き直る。
「火薬の乾燥、火蓋の調整、
すべて今のうちに徹底させよ」
雨。 川。 地形。
九頭竜川は、ただの水の流れではない。
戦場そのものが「動くもの」になる前夜だった。
夜の静けさ、二つの陣
その夜。
上杉陣の一角に灯された火のそばで、
謙信は一枚の紙片に筆を走らせていた。
― 明日、川を渡る。
これより先は、ただ一戦。
勝てば、京へ道が開ける。
敗れれば、義も、足利も、仏法も、皆潰える。
筆先はそこで止まり、紙は火にくべられた。
「書き残すほどのことではないな」
呟きは、誰にも聞かれなかった。
一方、信長陣。
信長は安土から持参した地図を、最後に
もう一度広げていた。
近江。 美濃。 尾張。 伊勢。
京。
その中心近くに、小さく「越前」の文字。
「ここで、一度、天下を決める」
信長は地図を折りたたみ、 火の中に投げ込む
ことはしなかった。
「負ける前提で地図を焼く趣味はない」
短く笑って立ち上がる。
外に出ると、九頭竜川の水音が、
夜の闇に重く響いていた。
第四話はここまでとします。
第五話では、いよいよ九頭竜川の
決戦そのもの
雨の降り出し、渡河の瞬間、鉄砲と
騎馬と一揆勢が入り乱れる戦場、 そして
「謙信対信長」の初めての
直接衝突の描写へと入っていきます。
第五話 九頭竜川、雨中の決戦
夜が明ける前に、雨は降り始めていた。
最初は細い糸のような雨脚が、
やがて太く重い筋となり、九頭竜川の
水面を叩く。
川の流れは、目に見えて増して
いった。
水かさが上がり、岸辺の石の輪郭が
隠れていく。
「……来たな」
上杉軍の陣から空を見上げていた
兵が呟いた。
曇天の向こうで、雷鳴が低く響いている。
謙信は、ぬかるみ始めた地面を一度
見下ろし、それから川を見た。
「手取川のときと同じだ。 ただし、川も敵も、
前より大きい」
織田軍もまた、この雨の中に布陣して
いる。
柴田勝家の隊列は、川沿いに横一文字に
伸び、鉄砲隊が前面に並んでいた。
「撃てば、火は消える。 だが、撃たずにいれば、
敵は渡る」
その矛盾を抱えたまま、鉄砲隊の兵たちは、
火蓋を濡れ布で覆って雨を凌いでいる。
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
