懐中温泉です、
歴史シミュレーションその15
第六話 安土に集う影
九頭竜川からの敗報が安土に届いたのは、
まだ朝靄が城と湖を包んでいる時刻だった。
使者は泥と雨で重くなった衣のまま、石段を
駆け上がり、本丸へと走る。
門番が無言で通し、薄暗い回廊を抜けると、
そこには既に何人もの家臣が集まっていた。
「織田軍、九頭竜川にて退却――」
使者の声は震えてはいなかったが、その短い
報告だけで、広間の空気が少し沈む。
居並ぶ顔ぶれは豪華だった。
柴田勝家 丹羽長秀 滝川一益 明智光秀
羽柴秀吉
それぞれが、己の領地と戦線を抱え、その先に
信長の天下構想を見ている。
誰もが、九頭竜川での戦いが「ただの一敗」
では済まないことを理解していた。
「殿のご到着を待て」
丹羽長秀が低く言う。
やがて、障子が静かに開いた。
織田信長が姿を現す。
派手な装束ではなかった。
深い紺の直垂に、簡素な羽織。
しかし、その歩みには迷いがなく、視線は
鋭く広間の隅々までを一度で測る。
信長は使者の前に立ち、目だけで続きを
促した。
「九頭竜川において、上杉勢が川を渡り、
我が軍左翼を押し返しました。
柴田殿は苦戦の末に陣を引き、殿の
御本隊も、それに合わせて退却の途に
つかれたとの由にございます」
使者は頭を下げた。
「つまり、負けたが、壊滅ではないか」
信長の声は静かだった。
誰かが息を飲む音が、かすかに広間に
残る。
「敗戦は敗戦だ」
信長は一歩進み、広間中央に広げられた
地図の前に座る。
近江、美濃、尾張、伊勢、京――その
中心近くに、越前の文字が小さく記されて
いる。
「九頭竜川で上杉に押し返された。
北陸への進出は一度、足を止めねば
ならぬ」
言葉は事実をなぞるだけだが、その言葉を
誰が口にするかで重みが変わる。
信長が自ら敗戦を口にした瞬間、重臣
たちはそれを「認めざるを得ない現実」
として受け止めた。
沈黙。
やがて、柴田勝家が口を開いた。
「殿。北陸は、再度兵を集めて奪い返す
べきかと存じます。
ここで退けば、京から北国への道が
細ることになります」
信長は、勝家の顔を見た。
「越前の戦況はどうだ」
「我が軍、損耗こそあれど、兵はまだ
まとまっております。
しかし、一揆勢が上杉と合流しつつあり、
北陸全域を敵方に押さえられる危険も
ございます」
「そうか」
信長は地図の北陸部分を、指先で
一度なぞった。
そこから視線を下げ、畿内と中国を見る。
播磨の三木。
摂津の在岡。
大和の信貴山。
「松永久秀、別所長治、荒木村重――
国内の火は、まだ消えておらぬ」
その名前の列挙だけで、重臣たちの表情に
また緊張が走る。
「九頭竜川で上杉に押されておる最中に、
国内では諸将が勝手に旗を翻している」
信長は指を止め、顔を上げた。
「今、北陸に全力を注げば、
播磨も摂津も大和も、毛利も本願寺も、
皆崩れる」
秀吉が、わずかに身じろぎした。
自分の戦線の名が、ひとつひとつ口に
される。
「だからと言って、九頭竜川の敗北を
なかったことにはできぬ。
天下を目指す者が、負けを認めぬふりを
すれば、それこそ天下が笑う」
信長は、ゆっくりと息を吐いた。
「九頭竜川は、“一度負けた場所”として
地図に刻んでおく。
だが、今すぐ取り返す必要はない」
ざわめきが広間を走る。
「殿、それでは――」
滝川一益が、思わず口を挟みかけて、
言葉を飲み込む。
信長はそれを制するように、手を軽く
上げた。
「北陸は、上杉に一時預ける。
代わりに、我らは畿内と東海を固める。
京、近江、美濃、尾張、伊勢――
ここを強くする」
地図の中心に指を置く。
「天下は一気に取ることもあれば、
一度“守り直す”ことで形を変える
こともある」
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
