懐中温泉です、
歴史シミュレーションその16
丹羽長秀が静かに問う。
「殿。九頭竜川後の戦略を、改めて
お聞かせ願えますか」
信長は、重臣たちの顔をひとりひとり
見ていった。
「まず、国内の火消しだ」
声は低く、しかし輪郭がはっきりしている。
「播磨の別所、摂津の荒木、大和の松永――
この三つの反乱を順次潰す。
秀吉は、中国攻めを一時放棄し、播磨
から退く。
光秀・藤孝は丹波からいったん引き、
摂津・大和の火消しを手伝え」
秀吉の眉が、わずかに動いた。
しかし、その動きはすぐに消える。
「国内の反乱を許したままでは、
毛利とも本願寺とも、本格的に対峙できぬ」
信長は続けた。
「次に、徳川家康との戦線を整える。
甲斐武田はまだ生きておる。
上杉と結び、関東を分国として固めつつ
ある。
家康の背後に火がつけば、東から
天下が裂かれる」
家康の名が出た瞬間、重臣たちの間に
別種の緊張が走った。
それは、もはや「同盟者」とだけは見られない
存在になっているという、自覚の現れでも
あった。
「家康には、今まで通り甲斐への圧力を
続けさせる。
ただし、“織田と徳川で東を分け合う”など
という甘い夢を見ぬよう、こちらから
“天下の中心は畿内だ”ということを、
折に触れて見せておかねばならぬ」
信長の視線が、光秀に向けられる。
「光秀。 京と丹波・若狭の情勢を、常に見ておけ。
上杉が北陸から京へ手を伸ばす気配が
あれば、それを朝廷と寺社に知らせ、
“織田の下にあるほうが乱は少ない”と
わからせよ」
光秀は静かに頭を下げた。
秀吉には、別の視線が向けられる。
「秀吉。 播磨から退くことに不満はあろう。
しかし、お前の兵は“柔らかく動く”兵だ。
火消しの場面で、一番役に立つ」
「は……」
秀吉は、一瞬だけ唇を噛んでから、笑みを
作った。
「それが、信長さまのお考えならば、従う
ほかございませぬ。
火の中に飛び込むのも、戦のうちでござい
ます」
その言葉の中に、わずかな棘が潜んでいる
ことを、信長は気づいていたかもしれない。
しかし、あえて触れなかった。
「柴田は北陸方面軍の再編を急げ。
越前に残った兵をまとめ、一揆の動きを
見定める。
深追いするな。
上杉を追って九頭竜川を渡ることは、
今はしない」
「承知」
柴田勝家の返事は、短く力強かった。
広間に再び沈黙が落ちる。
信長は、指を地図から離し、膝の上に
置いた。
「九頭竜川で負けた。
それは、天下が“一度裂けた”
ということだ」
その言葉は、今度は重臣たちに向けて
ではなく、自分自身に向けたものに近かった。
「東国に上杉。 西国に織田。
しばしの間、天下は二つに分かれる。
だが、それは“終わり”ではない。
織田の天下が終わるのでも、信長の夢が
終わるのでもない」
信長の目は、広間の誰もを見ていなかった。
湖の向こう、京の方角を見ていた。
「一度二つになったものを、
もう一度、一つにする戦が始まる。
九頭竜川後の政治戦とは、そのための戦だ」
丹羽長秀が、静かに頷いた。
「畿内を固め、東を睨み、西を押さえ、
上杉・毛利・本願寺・徳川――
それぞれと、どこまで戦い、どこまで
政治で折り合いをつけるか」
信長は、立ち上がった。
「よい。
負けたあとにどう動くかで、天下を争う者の
値打ちが決まる」
広間を出る信長の背中を見送りながら、
重臣たちは、それぞれの戦線に戻る
準備を始めた。
九頭竜川の敗戦は、 織田にとって「戦の終わり」
ではなく、 むしろ「政治戦の始まり」だった。
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
