懐中温泉です、
歴史シミュレーションその19
霧の向こうで鳥の声がした。
「九頭竜川後の政治戦とは、
ただ戦場で矛を交えることだけを言うに
あらず。
京の座敷にて、 誰の名前を書状の
一番上に記すか。
誰の旗の下に祈祷を捧げるか。
そうした小さな選択の積み重ねが、
やがて天下をどちらの手に傾けるかを
決める」
藤孝は黙って頷いた。
「光秀殿は、その場に居合わせることが
多い立場にござる。
難儀な役目じゃ」
「難儀ゆえに、面白くもある」
光秀は、ほんの少しだけ笑った。
「九頭竜川にて、信長公は一度退かれた。
しかし、それで天下が終わるわけではない。
むしろ、天下が“一度二つに割れる”という
新たな局面が開かれた。
この割れ目の上に、
橋を架ける役を果たす者が誰か
それを、京の人々は見極めようとしている」
霧が少し晴れ、丹波の山の稜線が鮮やかさ
を増した。
その向こうへ続く道は、京へ。
そして、九頭竜川で一度退いた織田の天下と、
北陸から迫る上杉の天下との間に伸びていた。
二人の馬は、再び歩みを早めた。
「丹波を平らげ、京を静めること。
それが今の我らの役目にござるな」
藤孝の言葉に、光秀は頷き、前方を見据えた。
九頭竜川後の政治戦は、まだ始まった
ばかりである。
その戦いは、戦場だけでなく、 京の座敷、
寺の回廊、公家の帳場、 そうした場所すべてで
同時に進み始めていた。
第九話 越前に残る槍
九頭竜川の戦いが終わったあとも、越前の
空から雨はなかなか去らなかった。
川沿いの土はぬかるみ、倒れた槍や折れた
旗の跡が、まだそこかしこに残っている。
その戦場の、少し後ろ。
越前北の一角に、織田軍の陣が組み直されて
いた。
柴田勝家、そこに在り。
甲冑を脱ぎ、肩にかかったままの濡れた羽織を
一度振り払うと、勝家は地図を広げた。
越前一国。
その北に加賀、能登。
南には近江、若狭。
「……九頭竜川まで、線を引き直すほか
あるまいな」
勝家は、川のあたりに指を置いた。
手取川で一度押し返され、 九頭竜川で再び
押し返され、 北陸における織田の前線は、明らかに
下がっていた。
しかし、信長からの命は明瞭である。
九頭竜川を今追って渡るな。
北陸は、当座お前に預ける。
深追いせず、一揆の動きを見極めつつ、
「織田の北陸」を崩さぬよう守れ。
「預ける、か」
勝家は、小さく鼻で笑った。
「預けられたということは、
ここで崩せば、天下の北側が一気に
壊れるということよ」
越前は、ただの一地方ではない。
加賀・能登・越中と京とをつなぐ門であり、
若狭・近江と北陸を結ぶ要でもある。
そこを任されたということは、
敗戦の責を負わされただけではなく、
「この先の北陸戦線をどう描くか」を託された
ということでもあった。
「殿」
側に控えていた前田利家が声をかける。
「一揆勢の動きにございますが、
加賀にて上杉と合流し、一部は越前へも
入り込みつつあります。
このまま放置すれば、織田方の城下にも
火が回りましょう」
勝家は頷いた。
「一揆は、上杉にとって兵であると同時に、
刃でもある」
越前・加賀の一揆勢は、信長への恨み骨髄
とはいえ、同時に統制の難しい大衆でもある。
「上杉は、“義”を掲げて一揆と歩む。
しかし、一揆が行き過ぎれば、
それは“秩序”を壊す風にもなる」
勝家は、川から視線を外し、越前の国内へと
目を移した。
「織田が負けて退いたあと、越前国内の土豪
どもは、 『この先どちらが国を守るか』を見極め
ようとしている」
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
