懐中温泉です、
歴史シミュレーションその23
第十話 家康の天秤
三河・岡崎の城は、梅雨の晴れ間にかすかな
日差しを受けていた。
雨に洗われた瓦は黒く光り、城下の田には
水が満ちている。
徳川家康は、静かな座敷に一人座していた。
目の前には地図が広げられている。
三河、遠江、駿河。 その西に織田の尾張・美濃。
北に甲斐・信濃。
さらにその先には、越後と関東がある。
「……九頭竜川で、上杉に押されたか」
家康は、小さく呟いた。
安土から届いた書状には、 九頭竜川にて
織田方が退却を選んだこと、 北陸への直接反撃は
当座見送りとすること、 代わりに国内諸反乱と
東方の戦線整理を急ぐこと
が記されていた。
その一文の陰には、言葉にされぬ意味が
潜んでいる。
東のこと、よく見ておけ。
甲斐武田、上杉、北条の動き、油断するな。
「信長どのも、人が悪い」
家康は、苦笑した。
「九頭竜川で退かれた、と素直に書かれては
おるが、それは同時に、 『東の守り口は
徳川に任せる』という宣告でもある」
天下の形勢は、一度揺れていた。
東には、上杉謙信。
関東・東北・北陸十一か国を押さえ、
甲斐武田とも通じ、北条を包囲しつつある。
西には、織田信長。
畿内から東海を握り、 京の政を動かしつつある。
その両者の狭間に、徳川の国々がある。
「上杉が、甲斐・信濃にまで口を伸ばしてくる
ことは、 今はあるまい」
家康は、自らに言い聞かせるように呟いた。
「上杉はまず関東を固め、
北条を押し下げ、
京へ向かう道の背後を整えねばならぬ。
そのあいだ、甲斐は
まだ、我らと信長どのの“間の地”として残る」
甲斐武田勝頼。
長篠の敗北を経てなお、 甲斐・信濃に強兵を抱え、
徳川と国境で一進一退を続ける相手である。
「勝頼は、上杉に心を寄せておる、と聞く」
家康は、北の山を思い浮かべた。
上杉謙信からの書状に涙したという勝頼。
上杉と武田が、関東包囲の一角として
互いを認め合い始めている。
「上杉と武田が完全に手を握れば、
東国の秤は一気に傾く。
信長どのは、それを恐れておられる。
ゆえに、我に『東を見よ』と仰せになった」
家康は、筆を取り、紙を引き寄せた。
――上杉の動き、いまだ北陸・関東にあり。
甲斐勝頼、関東包囲に加わる様子。
しかし、甲斐より西へ出る動き、
今のところ見えず。
「勝頼は、まだ“守りの武田”を捨てきれて
おらぬ」
帳面に短く書きつけ、家康は筆を止めた。
「ならば、我は“動かぬ徳川”でいるべきか、
“動く徳川”でいるべきか」
独り言は、誰に聞かせるでもなく宙に消える。
動けば、甲斐との戦が再燃する。
武田の山城は、容易に落ちぬ。
今、織田が北陸に手を伸ばせぬ状況で、
徳川が甲斐に深入りして傷つけば、 東国全体が
上杉側に傾く危険がある。
動かなければ、勝頼は体力を回復し、
上杉と共に「東方上杉・武田連合」として、
いずれ徳川の背を突いてくるやもしれぬ。
「……これが、天下の天秤というものか」
家康は、窓の外に目をやった。
三河の田は静かで、民の暮らしには
まだ“天下二分”の実感は及んでいない。
「信長どのは、自ら九頭竜川で退くことを
選ばれた。
上杉は、北陸で勝ちを得て、勢いを得た。
その狭間で、徳川がただ織田の“従者”
として縮こまっておるだけでは、いつか
地図の上から名前が消える」
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
