懐中温泉です、
歴史シミュレーションその24
家康は、紙に新たな行を立てた。
徳川は、織田の同盟者にして、東国の
“門番”なり。
上杉・武田・北条いずれとも、 「すぐには
切れぬ道」を少しずつ残しておくべし。
「上杉とは敵対の形を取らねばならぬ。
しかし、関東にて上杉が北条を押さえ、
甲斐にて勝頼がまだ踏みとどまっている
ならば、我らは『東全体の安定』という名目で、
時に上杉の存在を利用することも出来よう」
家康の目が細くなった。
「信長どのにとって、東は“従うべき地”だが、
東国の者にとっては、“生き延びるべき地”だ。
上杉が関東を“義の旗”で縛り、
信長どのが畿内を“武の旗”で縛るのなら、
徳川はその間で、“生き延びる術”を選び
続けねばならぬ」
そのとき、外から足音がして、家臣が現れた。
「殿、甲斐より密使参っております」
家康は、筆を置いた。
「通せ」
しばらくして、痩せた男が座敷に通された。
衣の裾には山道の土がつき、目は用心深く
光っている。
「甲斐武田家中の者にて候」
男は深く頭を下げた。
「勝頼公よりの正式の使いにあらず。
されど、甲斐と三河の間に、
『今は戦を望まぬ者』が多く居ることを
お伝え致したく」
家康は、その言葉を黙って聞いた。
「上杉と手を組み、関東を押さえることは
甲斐に利あり。
されど、徳川と無用の戦をすれば、
東全体が乱れ、上杉とも信長とも敵となる
危険がある。
ゆえに、『甲斐と三河のあいだ、
しばし兵を交えぬ道』を探る者が、
甲斐の中にもおる、ということを……」
家康は、ゆっくりと頷いた。
「よい。
その話、聞かなかったことにはせぬ。
信長どのの顔を立てねばならぬゆえ、
表立っては何も約さぬが、 甲斐と三河の山間にて、
『通せる道』『通せぬ道』を少しずつ分けておこう」
男は安堵の色を浮かべ、再び深く頭を
下げた。
使者が去ったあと、家康は、先ほどの紙に
一行を書き足した。
東国の天秤、今はなお揺れ続く。
しかし、甲斐とのあいだに「揺れ幅を
抑える楔」を打ち込み得るなら、 徳川はただの“織田の従者”では終わらぬ。
窓の外で、風が少し強くなった。
九頭竜川後、 天下は上杉と織田の二つの手に分かれ
つつある。
その境目に立つ徳川家康は、 どちらにも完全には
与せぬまま、 自らの重さを天秤の中央に置く道を
探し始めていた。
第十一話 「天下」のかたちを描き直す
安土城の天守から見下ろす琵琶湖は、
薄曇りの空を映して灰青く光っていた。
九頭竜川での戦から、そう日も経っては
いない。
だが、織田信長の頭の中では、天下の
地図がすでに別のかたちを取り始めて
いた。
広間には、再び地図が広げられている。
近江、美濃、尾張、伊勢、山城、大和、
河内、和泉、摂津、越前、丹後。
色の塗られた領地は、確かに広い。
「十三万余の兵を動かし得ても、
天下を一度に掴みきるには足りぬ、
ということよ」
信長は、誰に向かうともなく言った。
側には、丹羽長秀と明智光秀が控えて
いた。
他の重臣たちは、それぞれの戦線へ
散っている。
「今までの“天下布武”は、
『織田が常に攻め、常に勝つ』ことを
前提にしておった。
尾張をまとめ、美濃を取り、近江を押さえ、
京に入り、比叡を焼き、本願寺を囲み、
浅井・朝倉を討ち、伊勢を従え、
丹波・播磨へと進む
その流れの中で、『いつか天下は、
自然と織田の色に染まる』と考えていた」
信長の指が、地図の上をゆっくりとなぞる。
「九頭竜川で、一度押し返された今、
その考えは一度捨てねばならぬ」
光秀が静かに口を開いた。
「殿。“天下布武”の御意を、変えられる
おつもりにございますか」
「変えぬ」
信長は即座に答えた。
「“天下布武”は変えぬ。
変えるべきは、天下を掴むための
“道筋”だ」
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
