懐中温泉です、
蒸気機関物語―それぞれの幸福―22
結は独楽を止めました。
回転は、手を離したあともしばらく続く。
人の考えも、そうかもしれない。
誰かが火と水を使って球を回す。
その場で何かが変わるとは限らない。
けれど、見た人のなかに、小さな問いが
残る。
なぜ回るのか。
もっと別のことができないか。
目に見えないものを、どうすれば
使えるのか。
問いは、すぐには働かない。
水も汲まない。
荷も運ばない。
けれど、問いを持った人は、次の朝、
また火を見に行く。
結は、ノートの最後に書きました。
役に立つ発明は、困りごとから
生まれる。
役に立たない発明は、驚きから
生まれる。
けれど、驚きはいつか、困りごとを
見る目を変えるかもしれない。
窓の外で、風が少し強くなりました。
湯気は横へ流れ、すぐに見えなく
なります。
それでも源泉は、地面の下で湯を
生み続けている。
結は次の頁を開きました。
神殿の仕掛け ――見えない力を、見えるものにする
第十四話 神殿の仕掛け
見えない力を、見えるものにする
結は、古い神社の前で足を止めました。
温泉宿を出て、駅へ向かう前のこと
でした。
石段の脇には苔があり、手水鉢には
昨夜の雨が残っていました。
社殿の扉は閉じていて、境内に人影は
ありません。
結は、扉を見つめました。
閉じた扉には、いつも少しだけ秘密がある。
中に何があるか分からないからでは
ありません。
扉の向こうにあるものが、こちら側とは
別の場所として守られているからです。
昨日まで読んでいたヘロンの装置のなか
には、火をつけると神殿の扉が自動で開き、
火が消えると閉じる仕掛けがありました。
結は最初、その説明を読んで少し笑い
ました。
蒸気の球だけではなかったのだ。
古代の人々は、火と水と空気を使って、
扉まで動かそうとしていた。
けれど、仕組みを読み直すうちに、笑う
気持ちは消えました。
祭壇で火を焚く。
熱を受けた空気がふくらむ。
その空気が、見えない管を通って、地面の下に
置かれた器へ届く。
器の中の水が押され、別の容器へ移る。
水を受けた容器は重くなり、ゆっくりと下がる。
紐が引かれる。
扉の軸が回る。
そして、扉が開く。
火が消えれば、空気は冷える。
水は戻る。
重さが変わる。
今度は反対側の仕掛けが働き、扉が閉じる。
火の前に立つ人には、管も、水も、地下の
容器も見えません。
見えるのは、火が灯されたあと、扉がひとり
でに動くことだけです。
*
古代の神殿の前に、人々が集まっている。
結は、そう書き始めました。
ただし、これは創作である。
実際にこの仕掛けがどの神殿に設けられ、
どれほど使われたのか、結には確認
できない。
『プネウマティカ』には装置の作り方が記されて
いる。
しかし、設計図があることと、広く実用された
ことは同じではない。
だから結は、神官の名前を書かなかった。
神殿の名も書かなかった。
ただ、扉の前に立つ人々を書いた。
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
