懐中温泉です、
蒸気機関物語―それぞれの幸福―10
結は、ノートの頁を半分に線で分け
ました。
左側に「史実」と書きます。
右側に「結の考え」と書きます。
左には、年や場所、機械の仕組み、
特許、手紙、遺言書、新聞記事を書く。
右には、結が見た湯気、思い出した
展示室、想像した機関小屋、そして
「幸福」という言葉へのためらいを書く。
その二つを混ぜてはいけない。
けれど、遠く離してしまっても、この物語
にはならない。
史実を丁寧に確かめ、その横で、結が
静かに考える。
確かなことは、確かなこととして置く。
分からないことは、分からないまま残す。
そして、分からない部分にだけ、小説の
灯りをともす。
結は、そう決めました。
雨は、まだ降っていました。
窓ガラスに湯気が薄く広がり、外の灯り
をぼんやりとにじませています。
結は表紙の題を見直しました。
蒸気機関物語――それぞれの幸福――
「それぞれの」と付けておいて、
よかった、と結は思いました。
幸福は、一つの形ではない。
大きな機械を完成させる喜びもある。
それを使って、仕事を続けられるように
なった人の安心もある。
家に帰り、温かい食事を囲む静かな
時間もある。
そして、失敗したあとに、それでも
ノートを開く夜もある。
結は、題の横に小さく書き足しました。
この物語は、幸福だった人々の伝記
ではない。
幸福とは何だったのかを、結がたずね
続ける物語である。
書き終えると、胸のなかにあった重さが、
少しだけほどけました。
湯のみの湯気は、いつの間にか
消えていました。
けれど窓の向こう、雨の暗がりの
なかでは、温泉の湯気がまだ白く
立ち上っていました。
第七話 発明者の孤独
翌朝、雨は上がっていました。
宿の廊下の窓から見ると、山はまだ
雲のなかに半分隠れていました。
濡れた木々の間から、細い湯気が
幾筋も立っています。
昨夜の雨が地面を冷やしたのでしょう。
温かい湯は、朝の空気のなかで
いっそう白く見えました。
結は朝食のあと、誰もいない談話室へ
行きました。
壁際の本棚には、旅の案内書や古い
写真集が並んでいます。
その一番下の段に、前の宿泊客が
置いたらしい雑誌がありました。
結は何となく手に取りましたが、読む気
にはなれませんでした。
机にノートを広げ、昨夜書いた題を
見つめます。
この物語は、幸福だった人々の伝記
ではない。
幸福とは何だったのかを、結がたずね
続ける物語である。
その言葉の次に、何を書けばよいのか。
結はしばらく考えてから、ロンドンの
展示室の壁を思い出しました。
そこには、たくさんの名前が書かれていた。
大きな機械の横にある解説板には、
発明者の名だけでなく、設計者、製作者、
資金を出した人、工場の名、寄贈者、
保存に関わった人々の名がありました。
一つの蒸気機関の後ろには、
一人の名だけでは収まりきらないほど、
多くの人がいたのです。
それなのに、歴史の本を読むとき、
人はつい一人の名を探してしまう。
「誰が発明したのか」
「最初に考えたのは誰か」
「真の発明者は誰か」
結も、これまでそうしてきました。
ヘロン。
セイヴァリー。
ニューコメン。
ワット。
トレヴィシック。
名前を並べると、一本の道ができた
ように見えます。
古代から近代へ、幼い発想から完成した
技術へ、暗闇から光へ向かう、
まっすぐな道です。
けれど、本当にそうだったのだろうか。
ご精読ありがとうございました。
懐中温泉
