ここまで、救いのない映画が他にあるのだろうか。
もともとは、病気の姉のために自分の腎臓を提供したいとまで考える、
青年の優しさからはじまった行為が、終わりのない復讐の連鎖を生み、
結局最後には全員が、残虐な方法で殺されてしまった。
暴力を扱った映画は数多いが、その多くは理由の希薄な物語の小道具としての暴力の場合が多い。
しかし、この作品の暴力には明確な理由がある。だからこそ、怖い。
憎しみが人間の理性の箍をいとも簡単にはずしてしまう。
復讐はまた別な復讐を生み、それこそ皆殺しになるまで終わることはない。
この映画は極端な形で、それらを示しているような気もするが、
この映画には、それを単なる世迷言とは片付けさせない強さがある。
福岡から出張の帰り、駅の書店で購入した本。
何か小説が読みたいと棚を物色していたところ、
この人の名前どこかで見たことがあるなと購入。
本作の各エピソードの主人公は、だいたい若者なのだが、
皆そろいもそろって主体性のない人間ばかりなのだ。
彼ら彼女らは、恋人との関係、親子関係、といった身近な人間関係に悩んでいる。
しかし、それは本人にとっては大きな悩みだが、
他人にとっては取るに足らないものばかりだ。
もちろんそれだけでは物語にはならないわけで、
独立した各ストーリには共通して不思議な兄弟が出てきて、
最後にちょっとした奇跡が起こり、読後感は悪くない。
吉田氏が、現代作家のなかでどのあたりのポジションにいるのか知らないが、
たぶん現代を代表する作家の一人ではあると思う。
なるほど、現代とはこんな時代なのか・・・。
現代とは何とささやかな時代なのだろう。幸せも不幸も嫌になるほどささやかだ。
でも、ささやかであるからといっても、我々の悩みがつきることはないのだろう。
文藝春秋9月号で読んだのだが、最初の何ページか非常に読むのに苦労し、
もうやめてしまおうかと思ったほどだ。
しかし、読み終えてみると、「ポンパ」といった奇怪な言葉や、
意図的な文章の組み換えといった特殊要素を取り除いてみると、
意外にも非常にオーソドックスなテーマを取り上げた、平凡なストーリーであることが分かる。
一部には、非常に革命的な小説への新たな挑戦というような評価もあるようだが、
語り手である「私」が冒頭で述べているように、苦肉の策としか思えない。
それでも、どうにか最後まで読ませるのは、
むしろつまらない仕掛けを取り去った後に残る作品のもつ平凡さに他ならない。
本作は平凡さから逃れようとして、結局は本筋とは無関係な周辺を闇雲に周回していただけのような気がする。
しかし、その平凡さこそが唯一、この作品の救いとなっているのではないだろうか。
皆が知っている物語の主人公のその後はどうなったのか?
その物語の一般的に言われているものとは別な解釈とは?
といった問いは、使い古されているとはいえ、
作家によってその形は全く違うものになるわけで、
何度やってもそれなりに面白い。
しかし、森達也ファンを自認する私としては、
このテーマは森さんにはむいていないような気がした。
結局どのネタを選んでも主張が一緒なのだから、くどいし、飽きてくる。
作家の想像力が豊かでないと、この題材をうまく料理できない。
自分で鈍感であると言っているのに、こういったことをするのは、
誤解を恐れずに言えば、どれだけ文献を読み込んでいたとしても手抜きであると思う。
森さんに机の上だけでできる仕事をしてもらっても何の意味もない。
森さんの作品で面白いものというのはやはり被写体に徹底的に向き合ったものなのである。
同じことを主張するにも、そこにいたる取材というバックグラウンドがあるからこそ、
我々の心を動かすのではないか。
したり顔の評論家を目指すのだけはやめてもらいたい。
アメリカではどうか知らないが、日本では、硫黄島からの手紙 の方が評価が高いらしい。
当然と言えば当然といえるわけだが、私にはこちらの方が、響くものがあった。
これは硫黄島の擂鉢山に星条旗を立てたがゆえに、
英雄にしたてられてしまった3人の男たちを中心にした物語だ。
硫黄島と比べて本作の方が戦闘シーンをじっくり、ここまで描くかというくらい残酷に描いている。
カメラワークなども非常に迫力がある。
そして、それと対比させるかのように偽りの英雄に仕立て上げられていく若者たちの
戸惑いと苦悩を静かに描きだしていく。どちらも戦争の姿なのである。
戦争に英雄など一人もいないことをこの映画は教えてくれる。
テレビで放映されていたので、今さらではあるが見た。
厳密に言えば、明治維新直後の日本と言われると、いやいやこれは違うよとなる。
日本によく似た架空の国における、時代の流れに翻弄された
これまた侍によく似た、SAMURAIのファンタジーというところだろうか。
世界の様々な文明を文明開化、民主化の名のもとにぶち壊してきた、
欧米人の潜在的後ろめたさがこういった類の映画を作らせるのだろうか?
この監督はブラッド・ダイヤモンド の監督でもあるということで、
自分は気がついてますよという意味合いの方が大きいのかもしれない。
もちろんこれはこれで意味のあることであり、
しかも映画としての娯楽性も確保しているのは立派だと思う。
ただ、そうなるとあの映画もアフリカの現実をどこまで正確に反映していたのかは疑問が残る。
テレビで見たので、全編日本語に吹き替えされていたのだが、
字幕版で見るとどこまで英語だったのだろうか、
もし字幕版でみたら、ますます違和感を覚えたことであろう。
反省というタイトルになっていて、文中もことあるごとに反省を口にするのだが、
結局のところは全編を通じて外務省批判になっている。
おわりににおいて鈴木氏は別に恨んではいないと述べているが、
全く恨みの気持ちがなければ、ああいった内容にはならなかったであろう。
外務官僚のどうしようもなさを知るにはよい本だが、
外交という国家の大事を扱っているにもかかわらず、
何だか陳腐な暴露本のようにも思えてしまう。
それは、若干最後の方に触れられてはいたが、
日本外交の将来の展望や、我が国の進むべき道といった、
本来語られるべき視点の話があまりなかったからだろう。
それは裏を返せば、もはや彼らがそれを語るべき立場にはいないということの
残酷な形での証明なのかもしれない。
あえて反省という言葉をシニカルに使って、
自分たちを陥れた外務省の面々に反撃を試みているものの、
それでも隠し切れない恨みつらみが読者を白けさせると同時に、
もはや彼らが現役ではないことを教えてくれる。
著者は現代を節度なきマネー資本主義の時代という。
何でもかんでも市場にまかせておけばいいという市場原理主義の浸透で、
世は事後規制型の社会へと変貌をとげた。
近年でもライブドア、耐震偽装、食肉偽装と、
ばれなければいい、儲かればいいという考えから引き起こされた
としか思えない事件が多発している。
市場原理主義の側から言えば、だから市場から淘汰されたと言うことになるのだろううが、
そこに実際の被害にあった人々のことは全く念頭にない。
今こそマネーを人間の手に取り戻しなければならない。
今月の目玉であるはずの立花隆氏の講演録はインパクトが弱くあまり面白くない。
一番興味深かったのは吉田徹氏の 「サルコジ―フランス新大統領父殺しの手法」 だった。
この記事が真実だとすれば、幼少時の父親との関係が、
そのまま彼の父親的な者への不信感を生んでいるということになる。
国家の頂点へと立った今、彼は何への反発を力にしていくのだろうか。
この記事を読む限りサルコジ氏には危うさを感じる。
彼は全ての中心に自分自身があるような気がする。
最終頁の今月号が最後だという編集者のコメントを読む。
けっこう熱い想いで雑誌作りしてるんだなと少し嬉しくなる。

![月刊 現代 2007年 07月号 [雑誌]](https://img-proxy.blog-video.jp/images?url=http%3A%2F%2Fg-ec2.images-amazon.com%2Fimages%2FI%2F112wx8JBhFL._AA90_.jpg)