私が信頼し尊敬する作家である、大江健三郎氏、辺見庸氏が、

最近事あるごとに、言葉の危機ということについて述べている。

確かに昨今、言葉の軽薄さ、不真面目さが目に付くようになってきた。

今回の集団自決に関する裁判も言葉の危機と言えるのではないか。

裁判の内容を読めば読むほど全くでたらめな言いがかりなのが良くわかる。

大江氏が指摘するように曽野綾子氏の完全な誤読であるわけだが、

作家を名乗る人間が、明らかな誤読をして悦に入っているのであれば呆れるしかなく、

意図的なミスリードであるとするならば、まさに言葉の危機と言うしかない。

曽野綾子に代表されるような一群がこの国の言論の一翼を担い、

大江氏を法廷に引きずり出したことをまるで手柄のごとく喜んでいるとすれば、

暗澹たる気持ちになる。

今回の記事を大江氏は以下のように結んでいる。


このようにいう者らこそ、人間をおとしめていると信じます。

そういって私は証言を終えました。



曽野氏もこのエッセイを読んでいるはずだ。

大江氏のこの言葉をどのような気持ちで受けとめたのか?

これからも作家を名乗るのであれば、大いに恥じ入って欲しいものだ。

それとも、今度はあなたが名誉毀損で訴えますか?


鼠 鈴木商店焼打ち事件 / 城山三郎/著


かつて日本史の時間に鈴木商店の焼打ち事件を学んだ当時は、

商店という名前から非常に規模の小さい会社だと想像していた。

しかし、新興商社ではありながら、財閥系商社を凌駕するような存在だったとは。

いつのまにか鈴木商店が悪役に仕立て上げられた過程を、本書は明らかにしている。

解説で小松氏も述べているが、いつの時代も本当の悪は野放しにされているということなのか。

同時代に生きているとなかなか見抜くのは難しいのかもしれない。

だからこそ、城山氏の仕事には意義があるということなのだろう。


たんば色の覚書 私たちの日常 / 辺見庸/著


政治も文化も何もかも、昨今の不真面目さは目にあまる。

だからそこ我々には辺見庸が必要なのだ。

脳出血、癌と辺見氏に次から次へと襲い掛かる病は、

まるでこの社会の業を彼一人で受けとめているかのようだ。

この本には、辺見さんが京都で行った講演の内容が収められている。

この講演は、行きたかったが私用のため断念したので、嬉しかった。

辺見氏は指摘する。

死刑という問題から「黙契」ということについて。


  あの禍々しく悲惨極まる死刑は、人が人を憎んで殺すのではなく、

  ルーティンワークとして刑務官が代理執行させられているわけです。

  そのことについて私たちは議論をしない。

  このことを語ろうとする思想家も日本にはほとんどいません。

  でも、もし黙契というものの深刻さに気づいたら、ぜひ吐き気を感じてほしい。悪寒を感じてほしい。

  これが私たちの素敵な日常なんだと感じてほしいと思うのです。


人間の営みの何もかもが資本に絡め取られていることを。


  私たちは一呼吸するたびに、一歩歩くごとに、食べ物を一回噛むごとに、

  愛をかたるごとに、死ぬごとに、生まれるごとに、

  資本主義に奉仕しその延命に手を貸しています。

  市場はわれわれのためではなく、われわれがもっぱら市場のためにあるのです。

  (中略)私たちは常に有用であることを求められています。

  慈しみも優しさも愛と美の千態万状も、

  市場に吸収され市場に吐きだされる「意識商品」にすぎなくなりました。

  それが私たちの日常です。


私たちはどうすればいいのか?

順序は前後するが、辺見氏はハーマン・メルヴィルの「代書人バートルビー」をあげ、

次のように述べている。


  (前略)まったく一人の人間として、自分の身体だけを担保にして、

  やわらかい言葉で冷静に「願わくば、やりたくないのですが」という。

  「いや、そんなこといわないで」と求められても「やらずにすめば助かるのですが」と答える。

  バートルビーの抵抗は徹頭徹尾、個的な不服従です。

  それは物語化、英雄化の峻拒です。

  それはあくまで単独者の自己存在を賭けた拒否によってこそなし遂げられるものであるはずです。







男子の本懐 / 城山三郎/著


雑誌「世界」で内橋氏が紹介していた1冊。


内橋氏は、この小説の魅力(浜口雄幸・井上準之助両氏の魅力)を、


軍の暴走を抑えるために緊縮財政を行った点だと指摘している。


浜口内閣の政策を今風に語るならば、痛みを伴う改革といったところだろうか。


一方が命がけだったのに比べて、もう一方のなんと不真面目なことか。


余談だが、先日のサンデー毎日11月4日号に、平沼氏の記事が掲載されており、





私が(安倍の)側近だったら、(中略)あと1時間我慢して、


国会の壇上で「国にとって(テロ特措法は)重要な法案だから、


命を懸けても延長を実現する」と言わせました。


演説しながら倒れるくらいの「演出」をしても良かった。


私がご意見番だったら、それくらいしましたよ。


(サンデー毎日11月4日号)





という記事が紹介されていた。


何と不真面目な発言だろうか。


一部には郵政問題にからめて、平沼氏を評価する声があるようだが、所詮こんなものだ。


今の時代には、本当に命をかけて国民のために政治に取り組む政治家などいない。


政治家という職業を無難にこなす輩ばかりだ。


浜口内閣は国民に大きな負担を強いることがわかっていながら、


なぜ、命をかけて金解禁を断行したのか?


その答えがこの小説の中にある。

自民党の終焉 民主党が政権をとる日 / 森田実/著


森田さんがだいぶ息を吹き返してきたような気がする。

本人は電通を批判したからだと言っているが、

とにかく、権力批判のためにテレビなどからは姿を消していた。

そして、その間一貫して小沢応援団を続けてきた。

小沢さんを応援するのは若干腰が引ける。

それは、長年マスコミによってつけられてきたダーティなイメージと、

下野して以降は応援するメリットがほとんどないからだろう。

参議院選の勝利によってようやく森田さんが表舞台に出てきた。

もちろん彼は、打算で小沢氏を応援してきたわけではない。

彼なら、腐敗した自民党政治を終わらせ、生活第一の政治を実現してくれると信じたからだ。

内容は、ホームページの焼き直しで目新しさはない。

改めて思うのは、前回の選挙は安倍政治(憲法改正や歴史認識など)への

国民の明確な拒否の意思表示だったということだ。

これが、森田氏の言うように自民党政治へのNOなのかどうかはまだ懐疑的な部分がある。

前回の世界 の記事で紹介したとおり、今後福田政権から社会民主主義的な政策が出てきたとき、

それでも国民の過半数が民主党を支持してくれるのかどうか、

それは、自民党の欺瞞をあばく森田氏らの地道な活動と、

何よりも小沢氏の今後の党運営の手腕にかかっている。


世界 2007年 11月号 [雑誌]

小沢論文が掲載されるということで、雑誌「世界」を購入した。

小沢論文の他にも、読み応えのある記事が多かった。

私のおすすめは、

・弁護士は何のために存在するか 喜田村洋一

・対談 なぜ安倍政権はメルトダウンしたか 山口二郎×佐藤優

・今こそ国際安全保障の原則確立を 小沢一郎

・城山三郎から何を学ぶか 内橋克人

・相撲は「国際化」したか 稲垣正浩

こんなところだろうか。

その中で、今回は「対談 なぜ安倍政権はメルトダウンしたか」を取り上げたい。

私は、佐藤優氏の発言のすべてに共感したわけではないが、

福田政権について非常に的確に言い表していた部分があり、

佐藤氏の分析力にあらためて驚愕した。


福田さんは、対中国もハト派だ、ハンセン氏病患者の問題に関しては患者の側に立っていたと、

国民にやさしい人なのではないかという印象がある。

その辺りに今後権力基盤を強化する資源があると、権力者だったら誰でもかんがえるでしょう。

そうすると、しばらくは権力の中枢から社会民主主義的な政策が断片的に出てくるのではないか。

つまり、保守主義的なシンボル操作と同時に社会民主主義的なシンボル操作が出てくるのだけれど、

社会民主主義のような合理性に基づいた構築はない。

そうするとイタリア社会党左派からファシズムが出てきたように、

非常にこわい政治になる危険性があります。

それは福田さんが強いがゆえにこわいのではなく、むしろ弱いがゆえに出現するこわさです。(後略)


まだまだ始まったばかりとはいえ、福田政治というものが見えてこない。

ただ、私はひとことでは言えない、とらえどころないこわさを感じていた。

佐藤氏の指摘するとおり、非常にこわい危険性を孕んでいるような気がする。

少なくとも安倍さんのようなわかりやすさはない。

我々一人ひとりが踏みとどまって考えなければならない時代がきている。

ルポ最底辺 不安定就労と野宿 / 生田武志/著

昨今、格差社会やネットカフェ難民などの貧困を題材にした書籍が増えている。

貧困が無視できないほど進んできていることの表れであろう。

その中でも、本書は釜ヶ崎や山谷などのいわゆる日雇い労働に関わる問題が、

現在のフリーター、派遣労働者の貧困の問題と地続きであると指摘している点が他とは一線を画している。

加えて、著者自身が日雇い労働を行いながら、野宿者支援活動に携わっているために、

内容にリアリティと説得力がある。

これを読むと、自らの責任というよりも、

政治と資本家の都合により、彼ら使い捨てとも言えるような層が生み出されていることが分かる。

本書の中に「いす取りゲーム」という比喩が出てくるのだが、

私も先日、書店まわりをしている出版社の営業の人間から面白い話を聞いた。

最近、大型書店の出店が非常に増えているが、

実は、新しい店ができても地域全体の書籍の売り上げはほとんど増えないのだそうだ。

その地域で読まれる本の総数は大体決まっているということだ。

ということは限られたパイの奪い合いであり、

新規出店があれば既存店の売り上げにマイナスの影響が出るということだ。

これは経済全体にもいえることで、経済的成功者が出るのは、

派遣労働などでそれを支える貧困層がいるからだ。

そう考えると、「努力した者が報われるいい社会」などと軽々しくは口にできないはずだ。

「おわり」に著者がなぜ今の活動を始めたのか聞かれることが多いという記述がある。

実際、問題意識を持つ人は多くても著者のように、

実際に支援活動にまで参加している人は少ない。

その疑問にたいして、生田氏は1995年に道頓堀で起きた

若者が野宿者を川に投げ落とし水死させた事件をあげ、次のように述べている。


ただ、ぼくは川に投げられるたくさんの花を見ながら、

「死んでから花を投げても遅いんだよなあ」と思わずにはいられなかった。

手をさしのべるなら、殺されてからではなく、こんな事件の前にすべきだった。

(中略)もちろん、現実に自分ができることはあまりに小さく、

ほとんど無力感だけしか感じられないことが多い。

事実、路上死や襲撃による殺害は今まで延々と途絶えることはない。

だが、自分なりの活動を続けなければ、

ここから再び三たび「遅すぎた」と後悔しなければならなくなるだろう。

それぐらいなら、無力だとしても野宿問題のために何かをし続けるべきなのではないだろうか。

そして、それがぼくにとって、かつて感じられなかった

「世界との接点」のひとつの形となっていることは確かである。


何も感じない人もいる、「かわいそうに」と眉をひそめる人もいる。

ただ多くの人にとってはせいぜい、川に花を投げ入れるところまでだろう。

ただ、思うのは慈悲の心だけでは問題は解決しないということだ。

自分自身の問題として考え行動するしかないのだと思う。

しかし、残念ながら私も含め多くの人間は自分にとっての「世界の接点」を持ち得ていない。

我々は何の問題意識も持たずに日々を生きている。

そういう意味では、我々もまた貧困拡大に一役買っているとも言えるのだ。

別に野宿者問題でなくても構わない、

「遅すぎた」という後悔さえない人生にならないように一歩を踏み出さなければいけない。


森達也氏の対談集第二段。
前半は、著名人との対談、後半はテレビディレクターやフリージャーナリストなど、
一般にはよく知られていない人々との対談である。
ちなみに放送レポートとはどんな媒体なんだろうか?
知名度と反比例というわけではないが、後半の方が圧倒的に面白かった。
それは、現場で戦ってきたプロの前では、
総花的な評論家(?)たちの薄っぺらさばかりが目に付くからかもしれない。
そして、もう一つはホスト役の森さんも、やはりメディアが専門だからかもしれない。
現役もOBも含めて、関係者の共通認識が今のテレビは駄目だということだったのは、
何とも象徴的な気がする。もはやテレビに未来はないのか?





わたしが・棄てた・女 / 遠藤周作/[著]


本作を読んだ読者が抱く、森田ミツ像というのは皆そんなに違わないのではないだろうか。

それは、作中の言葉を借りるならば聖女であり、

神にどういう人間になりたいか言われれば即座に名前をあげるような人物である。

一方、もう一人の主人公である吉岡に関してはどうであろうか。

ある人は、冷酷なひどい人間だと思うかもしれない。

また、ある人は狡猾で利己的な人間だと思うだろう。

果たして、吉岡はミツを棄てたのだろうか。

私も必ずしもそうは思わない。

いや、実際には確かに彼はミツをもてあそんで棄てたのである。

しかし、二度と思い出さなくても不思議ではない彼女のことを、

ことあるごとに思い出すのである。

彼は利己的な人間であるが、凡庸でもある。

森田ミツの献身的とも言える姿に感動を覚えるが、

彼女と私の間には大きな断絶がある。

むしろ共感できないまでも、吉岡の方が近く感じてしまうのは私だけではないだろう。

実は彼が彼女を棄てたというよりも、ハンセン病患者を隔離し、

目の届かないところに追いやった我々こそが彼女を棄てたと言えるのかもしれない。