昨今、格差社会やネットカフェ難民などの貧困を題材にした書籍が増えている。
貧困が無視できないほど進んできていることの表れであろう。
その中でも、本書は釜ヶ崎や山谷などのいわゆる日雇い労働に関わる問題が、
現在のフリーター、派遣労働者の貧困の問題と地続きであると指摘している点が他とは一線を画している。
加えて、著者自身が日雇い労働を行いながら、野宿者支援活動に携わっているために、
内容にリアリティと説得力がある。
これを読むと、自らの責任というよりも、
政治と資本家の都合により、彼ら使い捨てとも言えるような層が生み出されていることが分かる。
本書の中に「いす取りゲーム」という比喩が出てくるのだが、
私も先日、書店まわりをしている出版社の営業の人間から面白い話を聞いた。
最近、大型書店の出店が非常に増えているが、
実は、新しい店ができても地域全体の書籍の売り上げはほとんど増えないのだそうだ。
その地域で読まれる本の総数は大体決まっているということだ。
ということは限られたパイの奪い合いであり、
新規出店があれば既存店の売り上げにマイナスの影響が出るということだ。
これは経済全体にもいえることで、経済的成功者が出るのは、
派遣労働などでそれを支える貧困層がいるからだ。
そう考えると、「努力した者が報われるいい社会」などと軽々しくは口にできないはずだ。
「おわり」に著者がなぜ今の活動を始めたのか聞かれることが多いという記述がある。
実際、問題意識を持つ人は多くても著者のように、
実際に支援活動にまで参加している人は少ない。
その疑問にたいして、生田氏は1995年に道頓堀で起きた
若者が野宿者を川に投げ落とし水死させた事件をあげ、次のように述べている。
ただ、ぼくは川に投げられるたくさんの花を見ながら、
「死んでから花を投げても遅いんだよなあ」と思わずにはいられなかった。
手をさしのべるなら、殺されてからではなく、こんな事件の前にすべきだった。
(中略)もちろん、現実に自分ができることはあまりに小さく、
ほとんど無力感だけしか感じられないことが多い。
事実、路上死や襲撃による殺害は今まで延々と途絶えることはない。
だが、自分なりの活動を続けなければ、
ここから再び三たび「遅すぎた」と後悔しなければならなくなるだろう。
それぐらいなら、無力だとしても野宿問題のために何かをし続けるべきなのではないだろうか。
そして、それがぼくにとって、かつて感じられなかった
「世界との接点」のひとつの形となっていることは確かである。
何も感じない人もいる、「かわいそうに」と眉をひそめる人もいる。
ただ多くの人にとってはせいぜい、川に花を投げ入れるところまでだろう。
ただ、思うのは慈悲の心だけでは問題は解決しないということだ。
自分自身の問題として考え行動するしかないのだと思う。
しかし、残念ながら私も含め多くの人間は自分にとっての「世界の接点」を持ち得ていない。
我々は何の問題意識も持たずに日々を生きている。
そういう意味では、我々もまた貧困拡大に一役買っているとも言えるのだ。
別に野宿者問題でなくても構わない、
「遅すぎた」という後悔さえない人生にならないように一歩を踏み出さなければいけない。