海の日に、家に居て、この薄い本を開いて、読書するのに至ったのは、どういうわけなのか、ただ与えられたとしか、考えられない。
昨日書店で購入し、昨晩から読み耽っている。そして、この感想を書いている。
きっと、私の先祖にもキリスト教徒がいたのだろう。
この本に登場する聖句に、ひしひしと心が呼応しているのを感じた。
此処に描かれているキリスト教徒であるパンフィリウスが、おそらくキリスト教に通ずる一般的な教えを述べており、それに対する医者は世俗的な一般論を述べているのだろう。主人公、ユリウスは、その了見の間で揺らぐ一般市民の代表として描かれていると思われる。また、私には、ユリウスがキリスト教へと心惹かれていく時に現れる医者の存在が、その道を遮ろうとする私の中にも潜む巧妙な悪魔のように思えた。
これを読み、人々の中にある憎悪や真理を追及する志、各説との戦いは、今も昔も変わらないのだと思った。勿論、それを思うか思わないかは、それを求めるか、否定するか、関心を示さないか、環境がそうさせるのか、神と出会うか出会わないか…先祖の功労にも、その人自身の責任分担にも依るだろう。敏感な人、鈍い人、自分の世界に拘る人…または苦労しているのか、満足して事足りているのか、病気を患ったのをきっかけに、生死について考えるのか…。
一人ひとりのエピソードの全てを神はご存じであり、求めるものには必ず与えられると、私はそう信じている。
ひとりの男が、長い時間をかけて世俗に身を置いた後、3度目の決意で、まっすぐな道に入り、物語は閉じた。
私の全身全霊が、我厭わず震え号泣するのを止められなかった。
真理の境地へ入る門の扉を叩く時に、その向こうを考えると、疑いの余地はなくとも、それを自分の行く道だとは、幼ければ考えにくい。叩く前に、扉の前から去る事を選び、周りに合わせ、俗世間で暮らしながら考えるのも悪くないと言って、罪の坩堝に嵌まっていった、過去の私を思い起こさせたのだ。
神を否定しながら自分を守ろうとしては、罪に罪を重ね、依存に依存を重ねた。歌にも影響されたであろうし、友人にも影響を受けたであろうし、また、何人もの恋人が、私の中を通り過ぎて行った。快楽は、どうしようもない私が生きる為に必要なものであった。私は自分を騙しながら、毒を美味しいと言って飲み、その杯を私を「好きだ」と言ってくれる目の前の男性や愛してくれる家族に投げつけてきた。
それは、人生に希望が見えないという、不安からだった。宙に浮き、漂っているような自分を憐れんで、どうなってもよいと苦しむ事によって、神とこの世の全てを否定していることを身勝手に表現したがった。
しかし、そのように悪いものに取り憑かれたような姿であった自分と決別し、解放されたなら、如何に自由だろう。のた打ち回らなければ見えない人もいるのだ。
お洒落やグルメや金、名誉、酒、女、男、仕事、家族、自分が熱中している事等に、愛情を注いだり、不和を感じたりしながらも、真理を追及するのは馬鹿げていると一蹴にして、今自身が身を置いている生活を大切にしようとするのが、大半の人々だろう。
神に与えられた命や人生である事を喜び、その愛に感謝したくて、私の魂は、泣き叫んだ。
それは真実だと、思うからである。
もうすぐ子どもたちは、夏休みを迎える。
私は、絵本や絵画や写真が載っている本はすきだが、活字への苦手意識があり、本とはほとんど付き合いがなく、宿題の読書感想文の為に、頑張って1冊読んでいるような子だった。
中学3年の夏に、私がどの本を読めばよいか迷っていると、父は『沈黙』という本を私に勧めてくれ、感想文を書いた事を思い出した。それには、殉教するキリスト教信徒たちが描かれていた。
『光あるうち光の中を歩め』にも、公開裁判後の殉教者の遺体をパンフィリウスが片づけるというシーンがある。どこまでも、迫害という2文字がつきまとっていたキリスト教史だったという事を想起させられた。信仰の為に命を絶っていった者たちがいた事を決して忘れない。
ユリウスが救われたように、皆も救われ、また私も救われるよう、歴史は必ず準備している。信じて求めれば、与えられる。それは、神の愛による。
時代は開かれている。私は、そう信じる。