祈れない。
それ自体が祈りだったのか。
水が満ち
やがて許されるのか。
ある日、久々に思い掛けずかき氷を食べた。
練乳とブルーハワイのシンプルな味と氷の冷たさは、心底美味しく、かき氷をカンボジアの子どもたちにも食べさせてあげたいと思った。
どうせなら、小豆やフルーツ等が乗った贅沢なものを食べさせてあげたい。
後ほど書店の旬コーナーでかき氷の本を見つけ、作り方が載っていたので参考に買っていこうと思った。
けれどそんな本を手に入れたところで、将来家庭用になるのは目に見えている。私はカンボジアの熱帯に過ごす民族にかき氷を届けたいのだ。国家レベルな諸問題がずらりと肩を並べるその国だからこそ、3日の夢でいい、無償で贅沢なかき氷を味わって貰い、心の渇きを最高に潤してほしいのだ。
どこかの王子がディズニーランドで豪遊したり、大物プロデューサーがラスベガスで大敗したり、資産家が趣味で大仏を作ったりしている。そんな財産が手に入ったら、私は真っ先にカンボジアへ飛んでいってボランティアをしながら、その国に必要な支援とは何かを知り、水道菅のひとつでも資産を投じて作りたいと、そんな事を考える。
こう言っといて、水を感じる豊かな国に生まれ、自分の身の丈だと言って生活を送っていては、偽善者だと言われても仕方ない。
ピクルスを漬けたり
酒の代わりに果実酢を飲みながら料理を作ってみたり
脚が痛くて朝晩お風呂でマッサージしてみたり
読みたかった本に出会い買ってみたり
出会ったことのないひいおばあちゃんの話を聞いて、自分もそうだと涙が出たり
けれどそういった小さな日常の中で、年を経る毎に夢は不思議と増え、いまも膨張し続ける宇宙のように消えはしない。
個人的な夢も多数ある。
『カンボジアにかき氷を』は、『国境線撤廃』の次に私の中で有意義な世界的な夢のひとつだ。
水が流れる向こう側に、人々がいる。
水は躍動し、生命を生み、消し去っていく。目の前の波は静かに手前に押し寄せ、満潮を迎えようとしている。
結局、私が出来ることは小さな日常で祈りを捧げる事のようだ。ところが、神がとってくださるような祈りをすることは、難しい。自分をなくし、淋しさから解放し、感謝の心情を報告する。それは神に向かう心情なくして、自己中ではできないのだ。
〝神がとってくださる祈りをできますように〟
そう祈り、堤防にある階段が一段海に沈んでいくのを見届けた。その波がぎりぎり下の方に迫る階段で、ムードたっぷりに佇むカップルには一瞥もくれてやらずに海を後にした。
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