こどもの頃は
信じられていたのにね。
いつからなのか
目の前でおきてるネガティブと取れる状況や反応に相反する
ポジティブな情報に触れた瞬間の数秒で
ネガティブ寄りに制限かけて見てしまう。
「そんなわけない」
「そんなことあるはずない」
そんな想いが反射的に発動する機会ふえたら
おとなになった証拠なのかな![]()
しんどい経験重ねるたびに厚みを増す
もうこんな思いしたくない、傷つきたくない
という防衛みたいなものとしての自然の反応
?
そうだとしても
だから仕方ない
ですますのは
とてもさみしいきがします。
意識して目をこらしてみれば
奇跡ともおもえるようなできごとが
きょうもどこかで
すぐとなりでも
いつもフツウにおきている。
「本当の自分の心の声(望み)」をしっかり知ろうとするだけで
どうにもならないと思っていた目の前の現実までも変化することだってある。
って前回書きながら
それを体感してる人たちの共通点を考えていたときにね
以前にあるひとから聞いた言葉を思い出しました。
直感はよくもわるくも間違えることあるけれど
違和感だけはうそつかないし、間違うこともない。
ここに共通点ひとつ
みつけたきがした。
「そんなはずない」と”おもいたい”ときって
自分の中にどこか違和感あって。
それはきっと
「そんなはずないはずがない」と心の底ではわかっているからでもあったりしないかな。
だからこそ
その違和感をなかったことにしてしまいがちな大人でも
はじめの数秒(ただしく働くのは3秒以内ともいわれてるね)でざわつく感覚素通りせずにうけとめて
「そんなはずないはずがない」のほう信じてみようときめたときから
望む方へと現実はうごきだす。
思い返せば
たしかにどれもが、そうなっている。
ここでは作物は育たないとの専門家の見立ての土地で何十年も肥料も農薬もなしで(しかも連作で)立派な野菜育てつづけてるひと。
むかしテレビでやってたスプーンまげ真似してて、いとも簡単にぐにゃりとまげちゃったひと。
あとが残るのは避けられないと言われたひどいやけどが自然のうちにきれいに治ったひと。
自力での歩行はもう無理と診断されたのにある日立ち上がってご飯のお皿までたどりついた猫さん。
完治は望めないと言われたやまいのかげがいつの間にやら全部きえちゃったひと。
進行を抑えることくらいしかできないと言われた認知症の特性がいっさいなくなりかつての元気な笑顔できょうも過ごしているひと。
サイタが実際に身近で目の当たりにしたことだけでも、
これ以外にもいろんなことがある。
目の前でおきてるネガティブな状況や反応に相反する
ポジティブな情報にふれた瞬間の数秒間、どこに意識むけるのか。
「そんなことあるはずない」
っておとなのタテマエでかたづけてしまうのか
「そういうこともあるのかも」
ってひとすじの可能性に目を向けて
自分の中での望むかたちを拾ってみるのか
どちらを選ぶももちろん自由なのだけどもさ
信じるほうの筋トレは
しといて損はないよなきがします。
”信じ抜く筋力”つけておけたらきっと
日常でふつうに出逢うはずの奇跡。
その機会を遠ざけてしまうだけならば
表面上は「支障ない」ですます事もできるだろうけど
それだけじゃなしに
違和感無視して「そんなはずない」とかけてしまった制限が
実態のないくるしみ自らつくりだしてる側面あることも考えると
スマホのアプリみたいに
定期的にアップデートしていく意識かいいあんばいのえがおふやせていけたらいいなと、おもう。
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きょうもきのうより。
今がさっきより。
ほっとするひととき積み重なることで
あなたとわたしと
それぞれの大切なひとたちが
「大丈夫」につつまれますように。
