どうも〜、学生時代はVARのジェスチャーくらいのデカ弁当食ってたURYUです。
※VAR=サッカーのビデオ判定
以前、大学サッカーのラストまでを書き終え、そこから一時休止していたこのシリーズ。
久しぶりに復活します!
なぁ〜にそれ?という方のように前回の記事載せときます!(最初から見ないと分からないかもだけど)
もちろん、最後どこで終わったっけ?という方も是非😊↓↓↓
で、書いていく上で分かったのが、昔の写真ってあまり残ってない😂
パソコンに保存してたり、SNS上に載せてるならまだ復元できるけど、スマホのギャラリーにあったのとかはもう無理…。
故障で使えなくなっての機種変更だから、スマホ変わるごとに思い出写真が消えていく。残念。。。
前回までの話
ちなみにこの得点シーンはさっき見つけた掘り出し物(笑)前回の大学4年生編で載せるべきやつだった😅
折返しに突っ込んでったのが僕です。ゴール際でディフェンダーふっ飛ばしたやつ(笑)
相手チームは北関東で因縁のライバル作新学院大学。
この日は高校時代の恩師、奥大介監督の1年目の命日でした。
絶対に負けられない!って気持ちから出た捨て身のヘディングですね。
この試合で北関東リーグ優勝を決め、プレーオフに進みました。
だが、その年のプレーオフでは最後まで勝ち上がれず、大学サッカー集大成を悔しい形で終えました。←前回はここで終了
サッカーができるならどこでもいい
大学4年の6月頃になると、進路についての面談があります。
何をしたいか?
どうなりたいか?
どういう仕事に就きたいか?
といった内容。
その面談で、卒業後もサッカーを続けたいと言った選手は僕含め3人でした。
監督「サッカーどうするか?」
永田「やります!」
監督「おし、そしたら秋頃からJリーグやJFL(社会人リーグ)の練習参加に行かすよ。」
永田「サッカーができるならどこでもいいです。僕のことを必要としてくれるなら地域、国を問いません!むしろ今は海外に興味があります!!」
監督「おーそうか。海外のツテも少しあるからまた言うわ〜」
まぁ確かに海外にはずっと興味あったけど、
この時点でJリーグからのオファーは皆無。
チームも関東大学リーグという陽のあたる場所にはいない。
オマケに自分の実力もよく分かってたからの発言なんでしょう。
上武では試合に出れても、こんなレベル日本中にゴロゴロいますしね。
それでもサッカーがしたい。っていう本当にサッカーが好きな自分と、
学生サッカーのみで現役は引退したくない。っていう変なプライドもありました。
恩師と教え子、運命の再会
それから数週間後―
植木監督がモンテディオ山形で指揮を取っていた時の選手、卜部太郎さんと再会をする。
監督は高校生のスカウトのため、九州で行われてるサッカー大会に足を運ぶ。
卜部さんもこの時、オーストラリアのユースチームか、オーストラリア人選手を連れて、この大会に来ていた。
卜部さん「植木さん、お久しぶりです。卜部太郎です。」
監督「おぉ、太郎か!」
(これが15年ぶりの再会)
卜部さん「今オーストラリアで代理人業をやっているのですが、植木さんの所で海外に挑戦したい選手はいませんか?」
監督「あ!ちょうど海外に興味ある奴がいるわ。」
という流れで、
植木監督から後にオーストラリアでお世話になる代理人の太郎さんに繋げてもらいました。
太郎さんから個人的にオーストラリアサッカーの事や向こうでの生活を聞きましたが、
結局は俺自身が行って見ないと分かんないだろーな!っと思い、
大学4年の夏休みにサッカー部の合宿には行かず、一人でオーストラリアのクラブに2週間練習参加することに。
もちろん太郎さんのヘルプで。
「この費用は卒業後必ず返すから!🙏」っと親に頼み込み、
何があるかも、どんな世界が広がってるかも分からないオーストラリアという全く視野になかった国へ行くことになる。←決断力と行動力が売りの青年だこと。
当時、コアラとカンガルーくらいしかオーストラリアのイメージがなかったな…🐨🦘
てか今思えば、なんであんなすぐに
「オーストラリアに行ってみる!」って、合宿を休んでまで行きたかった今でも不思議なんだよね…😂(笑)
「南半球が俺を呼んでいる!」とでも思ったのか…。
まぁ結果的にこれが今に繋がってるから良かったんだろーけど。
海外の生活で色んな経験をしたい!
語学力をつけたい!
他国の文化に触れたい!
という想いは確かにあったが、それは後付けというか、やっぱり一番はサッカーがしたいから行きたかったんでしょうね。
オーストラリアに行くのも、その後バングラデシュに行くのも、全て縁があったからですし、初めから自分で狙いに行った場所ではなかったです。
次回へつづく…