どうも〜、『アンタの声楽器かよ…(震え声)』とか言われてみたいURYUです。
 
前回は「植木監督就任から1年越しに帰ってきたファイナル」のお話をしました。 

バングラデシュサッカーリーグが先日再開したことに伴い、このシリーズは今回で一旦終了します。
学生時代ラストの回想ブログ。なんだか寂しいです。

『大学卒業後のオーストラリア編希望!』と言って下さる方もいるので、今シーズン終了後にタイミングを見てオーストラリア編を書けたらなと思います。(8月以降かな)



 キャプテンになって

1年目から数人が試合に絡み、2年目は主体となり、3年目には最高の状態に仕上がっていた、この代もついに最終学年となります。

結局ここまで関東リーグに昇格もしていなければ、天皇杯にも出ていません。
いくら昔より力をつけた、サッカー部の雰囲気が変わったとは言え、【タイトル無し、北関東リーグ所属】の立ち位置は入学前と変わっていなかった。
毎年入学式の後に、保護者も参加で、新一年生サッカー部員の説明会がある。

監督、コーチ、スタッフ、各学年リーダーが新入生とその保護者へご挨拶。
どういう指導者、部員がいるのか?の簡単な紹介です。

そこでは、新入生一人一人も自己紹介します。
『名前、出身校、目標』
あの時僕は、「上武を関東2部リーグに上げて、そこから優勝して関東1部リーグに行く。」と目標を語りました。

大学サッカーの縮図やレベルも知らなかったけど、とにかくこの環境で絶対結果を残すんだ。と、そんな想いで入学しました。
大4 天皇杯

最終学年になり、未だ北関東リーグであったため、その目標は達成できなくなった。
関東2部リーグでも自分はプレーすることができない。

それでも、モチベーションは下がらず、「後輩達のために、上武のために、置土産を残す!」と最後の1年が1番真摯に取り組んだ自負があるし、自分とも向き合えたかな。


キャプテンになったのも大きな要因。

小学校、中学校、高校、どのクラブよりも、大学4年時のこの役職には責任があった。
その分プレッシャーも。
「周りの見本にならないといけない。常に引っ張らないといけない。試合では絶対的な存在にならないといけない。」という風に、弱い所を見せれないしんどさ。

これまで上級生とか置かれてる立場関係なく、物申したり、チームが良くなれば、と遠慮せずに行動してきたけど、
そんなのはある意味無責任であって、何も難しくない。
いつも誰かがバランスを取ってくれていた。


最終学年でキャプテンとなり、初めて先頭に立って引率する難しさを知る。
チーム状況を常に考えないといけないし、言いたい事を言うだけじゃ、130名の部員はまとまらない。

自分のパフォーマンスが良くないのに、何をみんなに語ることができるんだろう…とか何度も悩みました。
大4 関東リーグプレーオフ


これに関してはその立場の人間にしか分からないことです。
カッコつけてるように聞こえるかもしれないですが、

キャプテンの辛さはキャプテンにしか分からない。

多分、いまこの立場にいる人や過去にその経験がある人には、この言葉の意味が分かると思います。
そう感じない人は、『天性のリーダー』もしくは、『自覚がない』のどちらかじゃないかな。

なので、キャプテンのことを理解してあげて、周りの選手達は支えてください。
それが何よりも大きな助けになります💪
そういう団体は強いです。任せっきりじゃ絶対良くないです。



 関東へ、3度目の正直

最終学年での北関東リーグはかなり苦戦しました。
他の大学も徐々に力を付けてきて、かつ上武対策をされたりと、圧倒的な点差で勝つ試合は減りました。
そんで21、22歳にもなれば身体を酷使してる分ガタが出てきます。以前より回復は遅れ、怪我は増えます。
当時のフルメンバーが揃った試合は年間で1つもなかった。最後までギリギリの闘いだったなと思う。

それでも負けなしで意地の優勝をし、大学生活3度目の関東リーグプレーオフに進む。


最後の大会です。これに勝つために1年間、いや4年間やってきました。
もう関東昇格は目標ではなく使命となってました。

ファイナルで2年連続負けた経験があるのはウチだけ。
何としても、3度目の正直で関東昇格したい。
大4 最後の試合 VS 城西大学


予選リーグ初戦
VS 東京農業大学 0-4●

前年度関東から降格したが、この年にファイナルを勝った東京農業大学。
前半30分に失点後、上武から退場者が出る。またしてもこの大事な大会で退場者。痛すぎる。

予選リーグで得失点差は大事だから、守りに専念して0-1で終わるか?10人でも得点を取りに行くか?で話し合ったが、「うちの流れはどこかで来る、その時だけはリスクをかけて攻撃に徹しよう」と後半円陣時に決める。

そのすぐに流れがきて、うちのイケイケムード。
だが、前がかりな分守備の意識が少なくなり、後半20分にカウンターから失点。もうこの頃には1人分多く走っていて、みんなの体力もキツかった。
それでもまだ攻める姿を見せてしまってたのが痛恨。
今思うと2失点目以降はひたすら守ればよかったなと、、、当時勝負を知らない甘さが出た。
結果4失点。0-2と0-4じゃ全然違う。
この大差での負けは、あとの予選リーグの試合で響くに決まっている。

予選リーグ2戦目
VS 横浜国立大学 3-0○

2戦目の神奈川代表の横浜国立大学。
この試合には勝利と、大量得点が必要。
初戦の4失点は痛かったが、ここでは無失点かつ3得点と充分な結果が出る。

ちなみに永田はこの試合で得点。
大学時代が人生で1番ゴール決めまして、8割セットプレーからのヘディング(頭だけで公式戦30点くらい決めた😂)

予選リーグ3戦目
VS 城西大学 0-3●

この試合が大学最後の試合となりました。
ファイナルへ進むには、2点差以上の勝利が絶対条件。
練習試合でもよく対戦していた埼玉代表の城西大学。
お互いよく知っている分、とてもやり辛かった。
けど、まさか城西に負けて引退するとは思っていなかった…。
試合の終わり頃は、「え、負けるの…?これで俺達は引退なのか?」って不思議な感覚だった。

前半PKで失点。そこから3点は必要なのでとにかく攻める。が、またしても守りが薄くなっての失点…。
そこからは涙を堪えながらのプレーでした。

0-3で試合終了ー
僕らの大学サッカーが幕を閉じました。
みんなの悔しそうな背中
あー、終わったのか…って心境


試合後、ベンチに戻って挨拶をする時、
監督からの「羽竜ありがとうな。お疲れさん。」って言葉と握手で我慢していた涙が溢れました。

周りにいた後輩達の涙をみて更に号泣。

勝てなくてごめんな…と。
その後、応援してくれた部員達と上武応援席への挨拶では、
結果を残せなかった悔しさと申し訳なさがひたすらこみ上げて来ました。
4年間あれだけやってもダメだったのか…と。

頭を下げてるのが永田

悔しいけど、何かホッとした気持ちもありました。表現がムズい。
あの時、チームがまとまってなかった。とは言わないが、何かちょっとした歯車が噛み合わなくなってて、崩れ落ちていくかのようなラストでした。
持ってる力を出し切れなかったみたいな。

1年間のシーズンで、どこにピークを持っていくか。
良い状態のキープをどこまで保てるか、が大切なんですよね。


最高学年で闘う難しさは分かります。
来年できないし。

けど、残した結果は後輩達のためになり、それが自分達のためになる。と信じて大学4年生にはやり切ってほしいです。
下級生も、自分のためだけじゃなくて、「4年生に花を持たせる!」って気持ちでやってほしいですね。


 流せなかった嬉し涙

こうして小学生からの学生時代を振り返ると、嬉し涙を流せたことが1度もなかったです!

ほんと、悔し涙しかないなぁ〜😅

高校の時に東京代表として、選手権出場を決めるか。
大学の時に関東リーグ昇格を決めるか。

このどちらかが達成できてたら、嬉し涙が流れていたと思う。
大4 送別会 何人か就活でいない


いや、学生時代だけじゃなくて、その後から今日までも嬉し涙って人生で1度もない!

僕の経歴を辿ると、良い思い?というか何かの成功体験ってやつが多くない。
大一番にはほとんど勝てなかったし、選抜歴も小学生の時だけだし、何かのセレクションにはほぼ不合格。

だから、まだサッカーを続けられてるのかも🤔

身体より気持ちに限界が来てないというか。
満足してない、納得してない?って感じ。(笑)
上からの景色を見れてないからかな。

多くのタイトルを獲得したり、
高いレベルでプレーしてきたり、
その中で厳しさを味わった選手があっさりサッカーを辞めていくのってよくある話ですからね。
僕はそういう経験がないし、エリート街道を歩めなかった。


現役選手中、もしくは選手じゃない関わり方でも、"サッカーで嬉し涙を流したい"。
これがいつになるのかな?(笑)一生来なかったりして😆
去年上武でコーチをした時↑↓

最後に、これまで所属してきたクラブの選択に後悔は何一つないです。

過去の瞬間瞬間では、後悔したような気分になっても、今さかのぼると良い選択、良い運命だったなと思います😊

小学生の時、エースキャプテンが引っ越さなければ、川崎市選抜の一員になれなかった。
その選抜に入れなかったら、横浜FC鶴見JYには入れなかった。

中学の最後、もし試合に出ていたら、多分スポーツ推薦でどこかの高校に行ってたし、一般受験はしなかった。
高校受験に失敗したから、担任の先生が選んだすべり止めの多摩目に行くことになった。

多摩目じゃなければ、サッカー続けてるか分からないし、元プロのコーチ陣とのプレーはできなかった。あんな純粋にサッカーを楽しめなかった。
選手権であのようなラストを経験したから、あれ以降続けられない人の分までやろうと思った。

上武大学じゃなかったら、試合に絡めたか分からないし、あんな悔しい経験を何度も味わえなかった。
サッカーの深さを知れなかった。
その後オーストラリアに行くことは無かったし、そこから繋がってバングラデシュに来ることも無かった。

バングラデシュでプレーしなかったら…(未来)?
に続いていきますね😁
将来、「あの出来事があったから」って言えれば、どんなに苦しい事でも素敵な経験になります。
そう言えるように努めるのは自分自身。
何事も自分次第で変えれます✌️

そして、何度も言うように、
僕は周りの同期、先輩、後輩、指導者、トレーナー、スタッフに本当恵まれました!
応援に来てくれた多摩目の先輩、同期、マネージャー


これにて、学生時代編は終了します。

なんか、これ以降のストーリーを書こうか迷うな〜(笑)
またエピソードのテイストが違ってきますしね!


ここ数年はよく過去の事を聞かれたり、年齢と共に学生時代を話す機会が増えたから、この回想シリーズを始めました。
バングラまでどういう経緯があったのか?とかね。
けど、オーストラリアからバングラに行くまでを話しても、じゃあオーストラリアに何故行ったのかも聞かれるw
ってなると、大学の話しであったりその前の話であったり…色々と繋がっていくんですよね😅
一概に1つのストーリーにできない(笑)

なので、このシリーズは皆さんに僕の過去を知ってもらう、そして僕自身も振り返って当時を思い出す。という最高の機会でした!

欲を言えば、
今サッカーをしてて苦しんでる学生や、それを支える保護者、指導者の方々の、何かしらの力になれたらなと思います。

長〜い記事×15でしたが、皆さんの暇つぶしぐらいにはなっててほしいです😂

最後までどうもありがとうございました!!


……これで終わる予定だったけど、その後も書きました🤣


次回へつづく…