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法科大学院生。勉強メモ、日ごろの雑感を徒然なるままに書いていきます。あと、記事は随時加筆修正します。

小山「憲法解釈の作法」p145~あたりを、高橋「立憲主義と日本国憲法」と結びつけて理解する。
忘れないように以下にまとめておく。

 高橋教授の言葉を借りれば、憲法とは個人の尊厳を基礎とする社会を実定法秩序によって保障していこうというプロジェクトである。
個人の尊厳を保障するための実定法の規定の仕方としては、まず、国に対して個人の尊厳に必要不可欠な自由についての作為・不作為を要求する権利を与えることが考えられる。それが「人権」と呼ばれるものであり、これが主観的権利である。
 一方、個人に対して権利を付与するという形以外でも個人の尊厳を保障する方法は考えることが出来て、個人に権利を認めるのではなく、直接国に対して憲法が作為・不作為を要求するのである。これが客観法である。
 
 20条3項の理解については、①人権(主観的権利保障)説、②制度的保障説、③客観法上の保障説が対立している。
 ①人権説は、その名の通り主観的権利を国民に保障したものだとする。すなわち、信教の自由はそれに対する間接的な圧迫・干渉からの保障を含むと解するのである。
 ただ、「間接的な圧迫・干渉」が不明確であること、政教分離は信教の自由のみならす、宗教的非合理性から政治の有すべき合理性を防御するという側面がある、宗教的中立はときに個人の信教の自由と対立することがある(剣道実技拒否事件参照)。以上のことから信教の自由としての主観的権利と構成するのは困難である。
 ②制度的保障説(従来の通説)とは、国家が宗教的に中立であるという政教分離が制度として憲法上望ましく、その制度を憲法の保障に取り込んでいるのだという見解である。
 判例はこの説に立ち、制度の核心を害するような場合には憲法違反となると考えるている。この判例の理解は原則合憲、例外(制度の核心を害する)違憲とするものであり、その上で目的効果基準を採用する。

 しかし、20条3項の条文を見ると14条2項、21条2項(検閲の禁止)と同じように国家の特定の行為に対する禁止規定であり、ある制度を創設することを規定しているのではない。
 この理解が③客観法上の保障説(現在の通説)の理解である。

注意すべきことは、制度的保障説を採るから目的効果基準となり、客観説を採るからレモンテストになるわけではない。



※レモンテストと目的効果基準の違いについては同ブログ内「レモンテストと目的効果基準」参照
 思想良心とは信仰に準ずる世界観・主義・思想を全人格的にもつここと(全人格的とは、生き方として選択しているという感じか。)という考え方がある(信条説)。
 判例はかかる信条説を採るが(謝罪広告・ポストノーティス事例)、思想良心の自由の意義が、全ての精神的自由の基礎となる内心の自由の保障にあることを考えれば、思想良心の自由は広く是非弁別も含むと考えるべきである。仮に事物に関する是非弁別が含まれないとすればその線引きはあいまいで不明確であるし、ある思想が信仰に準ずる全人格的に持つ思想かどうかの区別をするとなれば、対象人の内心を離れ裁判官等の他人が他人の思想を判断基準に区別をすることになるが、それはもはや内心の自由の保護の放棄を意味する。
 謝罪広告事件やポストノーティス事件で違憲ではないという判断は常識感覚としては肯定しうるものである。ただ、その論理は思想良心の自由の保護範囲を狭めることではなく、むしろ制約を認めたうえでその制約の程度が憲法上許容しうるものであるという方向で法律構成すべきである。
 謝罪・ポスト事例では事物に関する是非弁別が思想良心の保護に入るとしても、「謝罪や労働規約に反しなという約束を公表すること」が思想良心の自由の保護範囲に入るとは直ちにはいえない。謝罪などはあくまでも文書表示を命じられただけで、思想良心になんら影響はないと考える余地があるからである(例えば、本人が自分は悪くないと信じて、心のこもっていない表示をするだけだと考えているとすれば思想良心の自由は侵害されているとはいえない)。ただ、その人の主義思想と特定の行為が密接関連しており、特定の行為の強制が主義思想を持つことに対して侵害することがあり得る。その場合、特定の行為の強制を排除しなければ内心の自由の保障は図れない。そこで、主義・思想と密接不可分な特定の行為をする自由・しない自由も思想良心の自由の保護範囲に含まれると解する。謝罪広告等も、その人の事物に対する是非弁別と密接不可分の関係にあるといえるので、謝罪広告をしない自由というのが思想良心の自由の保護範囲に含まれると考えられるのである。
 特定の行為を強制されない自由が憲法の保護範囲に入るとしても、行為として他人と接触関係に入った以上、公共の福祉による制約は当然認められるべきである。ただ、内心の自由が精神的自由の基礎となる個人の尊厳にとって重要な自由であることを考えれば、その制約は①必要不可欠な公益を図るもので②その目的達成のために必要最小限度の制約であるべきであり、これを満たさなければ19条違反として当該制約は違憲となる。
いつも忘れるのでメモ。

一元的外在制約説:経済的自由の性質に注目。22条・29条が外在的制約=公共の福祉の意味。その他権利が内在的制約に服するのは当然であり、12条・13条は訓示規定。
              
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         あれ、でも13条訓示規定とすると、新しい人権の憲法上の根拠がないやん…。
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内在外在二元的制約説:よしじゃぁ22条・29条の公共の福祉は外在的制約を意味するもので、12条・13条の公共の福祉は内在的制約の意味としておこう。

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           同じ憲法上の言葉なのに内容が違うってどうよ。
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一元的内在制約説:ふむ、じゃぁ、憲法上の公共の福祉の意味は内在的制約ってことにしよう。ただ、権利の性質によって公共の福祉の内容は異なってくるけどね。これを「社会国家的公共の福祉」「自由国家的公共の福祉」と便宜上分けて呼ぼう。大事なのは人権は憲法上の権利との衝突を避ける限度でしか合憲的制約し得ないってことね。

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まてまてまて、そうすると制約を無理やり正当化するために人権のインフレ化が起きるやろ。立て看板禁止条例が住民一人ひとりの人権に還元されるなんて無理やりすぎる。実際には人権の衝突以外の場面で制約を認める必要性を感じているのではないか。それをあえて人権に構成しなおすことにどれほどの意味があるのか。
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憲法は個人の尊厳を保護するために国家のあり方を規定するという壮大なプロジェクトである。「個人の尊重」(13条)のために、個人の人権を離れた「公益」のための制約が認められるべきである。ただ、ここでの「公益」は個人が享受しえる具体的利益でないといけないけど。
そうして制約を認めたうえで、どの程度の制約が認められるかに注目。その判断枠組みが目的手段審査。

参照:高橋「立憲主義と日本国憲法」p110くらい