①必要性の原則②過剰規制の禁止がその内容である。
例えば、風邪を治すという目的の為に、薬を処方するとする。
そのときに、風邪に対して効き目がある必要があるというのが①の原則。
風邪を治すかもしれないけど、副作用で髪の毛全部抜けるとか、風邪よりひどい副作用を引き起こしたらアカンというのが②かな。
人権制約における違憲審査の視点として①目的の正当性②手段の適合性③手段の(狭義の)必要性④保護される利益と制約される利益の衡量があげられるが、客観法としての比例原則はこの内の②と④(③も含む?)と同じような基準かな。
参照:宍戸論文、小山「作法」
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※13条が比例原則という客観法的性質を有することについて「新・「新しい人権」」
伝統的な対立であった人格的利益説と一般的自由説の論争はもはや意味を成さない。そこで、予備校本の論証を大幅に変え、現在の議論を取り入れた新しい論証をここに作る。
幸福追求権が13条で個人の尊厳に続く形で規定されていることから、幸福追求権とは「個人として尊重」されることの意味を国民の側から「主観的権利」として包括的に捉えたものだと考えられる。そして憲法14条以下の個別の人権規定は、憲法制定時に「個人として尊重」されるため、すなわち自律的生のため必要不可欠と判断された主観的権利を具体化し列挙したものであると考える。
そうであるとすれば、時代の変化に応じて憲法制定時には想定されていなかった事態が生じ、個人の尊厳が害される可能性があれば、時代の変化によって生ずる個人の新しい必要・要求は具体的人権として個別化されることを憲法は認めていると考えられる。
ただ、新しい人権の承認に置いては、立法府との司法府との関係に留意しなければならない。原則的に権利の創設は立法府の役割である。そこで例外的に司法府による新しい人権が認められるためには、①自律的生のために不可欠な利益であること②その利益の確保が非常に困難となっていることが必要であると解する。
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13条によって新たな人権として承認されない場合であっても、13条は比例原則を実定化した客観法としての性質も有するので、国の行為には比例原則が及び、無制限に自由を制限できるわけではない。
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比例原則にいては同ブログ内「比例原則の内容」
幸福追求権が13条で個人の尊厳に続く形で規定されていることから、幸福追求権とは「個人として尊重」されることの意味を国民の側から「主観的権利」として包括的に捉えたものだと考えられる。そして憲法14条以下の個別の人権規定は、憲法制定時に「個人として尊重」されるため、すなわち自律的生のため必要不可欠と判断された主観的権利を具体化し列挙したものであると考える。
そうであるとすれば、時代の変化に応じて憲法制定時には想定されていなかった事態が生じ、個人の尊厳が害される可能性があれば、時代の変化によって生ずる個人の新しい必要・要求は具体的人権として個別化されることを憲法は認めていると考えられる。
ただ、新しい人権の承認に置いては、立法府との司法府との関係に留意しなければならない。原則的に権利の創設は立法府の役割である。そこで例外的に司法府による新しい人権が認められるためには、①自律的生のために不可欠な利益であること②その利益の確保が非常に困難となっていることが必要であると解する。
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13条によって新たな人権として承認されない場合であっても、13条は比例原則を実定化した客観法としての性質も有するので、国の行為には比例原則が及び、無制限に自由を制限できるわけではない。
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比例原則にいては同ブログ内「比例原則の内容」
(1)抑えるポイント。
①主観的権利と客観法の違いを抑え、その区別に着目して議論を展開する(同ブログ内「主観的権利と客観法」)。人格的利益説vs一般的自由説ではない。
②一般的自由説の母国であるドイツでは客観法型。+古典的「一般的自由権」は比例原則と法律の留保を自由一般(人権ではない!)に認めるための議論だった。
③13条の幸福追求権は個人の尊厳を保護するために主観的権利として自由を保障しようとしたもの(抽象的権利)。そしてその主観的権利を類型化したのが14条以下の人権である(具体的権利)。
(2)受験界ではやっている戸波さんの「一般的自由説」の理解と批判。
ここでいう一般的自由は直接13条によって人権として認められているのではなく、13条で認められる「自己決定権」の一内容として一般的自由が保障されていると考えている。
ポイント③は高橋教授の理解(たぶん宍戸さんも)を前提にすると、抽象的権利が子熱か・類型化して具体的権利になれることを証明して初めて一般的自由は一つの人権として体をなすはずなのに、その過程をすっ飛ばして人権として認めることは出来ない。戸波説のように「自己決定権」をかましたとしても、個別化・類型化の過程をすっ飛ばしていることに替わりはない。
(3)新しい人権の承認
個別化・類型化によって新しい人権として承認されるためにはいかなる要件を満たすべきか。このヒントは司法府と立法府の役割分担にある。
通常、社会がある権利を欲しているときにその権利を総説するのは立法府の役割である(41条)。新しい人権を解釈上認めるということはその立法府の職権を侵害して司法が自ら人権を総説することに他ならない。ただ、司法府が新しい人権の総説自体を禁止されているわけではない。日本における憲法改正の手続はすごく重く時代の流れに合わせて憲法制定時には想定されなかった人権というものを解釈によって認める必要がある。13条が抽象的な包括的人権として幸福追求権を認めていることはこれを予定しているといってよいだろう。
そこで、司法府が新しい人権非常に困難を承認できる場合とは、①自立的正にために不可欠な利益であること②その利益の確保が非常に困難となっていることが必要である。
(4)その他の自由の保障。
一般的自由説が問題なのは一般的自由を主観的権利としての人権と構成する点にある。ドイツのように一般的自由には客観法の保護が与えられるという前提にたって初めて一般的自由に対する保護が説明できる。
ここでいう保護とは比例原則のことである。比例原則は日本国憲法制定時に13条によって実定化したとされている。
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※論証「新しい人権」へ
参照:高橋「立憲主義」p132- 小山「作法」p95- 宍戸論文、法セミNo.641p71-
①主観的権利と客観法の違いを抑え、その区別に着目して議論を展開する(同ブログ内「主観的権利と客観法」)。人格的利益説vs一般的自由説ではない。
②一般的自由説の母国であるドイツでは客観法型。+古典的「一般的自由権」は比例原則と法律の留保を自由一般(人権ではない!)に認めるための議論だった。
③13条の幸福追求権は個人の尊厳を保護するために主観的権利として自由を保障しようとしたもの(抽象的権利)。そしてその主観的権利を類型化したのが14条以下の人権である(具体的権利)。
(2)受験界ではやっている戸波さんの「一般的自由説」の理解と批判。
ここでいう一般的自由は直接13条によって人権として認められているのではなく、13条で認められる「自己決定権」の一内容として一般的自由が保障されていると考えている。
ポイント③は高橋教授の理解(たぶん宍戸さんも)を前提にすると、抽象的権利が子熱か・類型化して具体的権利になれることを証明して初めて一般的自由は一つの人権として体をなすはずなのに、その過程をすっ飛ばして人権として認めることは出来ない。戸波説のように「自己決定権」をかましたとしても、個別化・類型化の過程をすっ飛ばしていることに替わりはない。
(3)新しい人権の承認
個別化・類型化によって新しい人権として承認されるためにはいかなる要件を満たすべきか。このヒントは司法府と立法府の役割分担にある。
通常、社会がある権利を欲しているときにその権利を総説するのは立法府の役割である(41条)。新しい人権を解釈上認めるということはその立法府の職権を侵害して司法が自ら人権を総説することに他ならない。ただ、司法府が新しい人権の総説自体を禁止されているわけではない。日本における憲法改正の手続はすごく重く時代の流れに合わせて憲法制定時には想定されなかった人権というものを解釈によって認める必要がある。13条が抽象的な包括的人権として幸福追求権を認めていることはこれを予定しているといってよいだろう。
そこで、司法府が新しい人権非常に困難を承認できる場合とは、①自立的正にために不可欠な利益であること②その利益の確保が非常に困難となっていることが必要である。
(4)その他の自由の保障。
一般的自由説が問題なのは一般的自由を主観的権利としての人権と構成する点にある。ドイツのように一般的自由には客観法の保護が与えられるという前提にたって初めて一般的自由に対する保護が説明できる。
ここでいう保護とは比例原則のことである。比例原則は日本国憲法制定時に13条によって実定化したとされている。
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※論証「新しい人権」へ
参照:高橋「立憲主義」p132- 小山「作法」p95- 宍戸論文、法セミNo.641p71-