7月下旬、猛暑の山形を旅してきた。

 自分のルーツを辿る、というと大げさだが、父方は山形の出身だ。小学生の頃に祖父から農家の出だと聞いているが、明治期に曽祖父が東京都内にある寺の住職になった。ただ、山形から東京へ出た理由は聞いていない。

 ちなみに我が家は祖父が寺の住職の三男なので、寺のそばに家はあるが、分家である。


 この旅は調査のためでもなんでもなくて、堅苦しく動くことはしないつもりだった。そもそも観光がてら付近をウロウロするのがメインである。

 山形情報を親に確認すると、最近は連絡を取っていないという。過去に親がやり取りしていた年賀状の住所だけを確認してきたのだが、結果的に、図書館で文献を調べたり自治体史を購入したりと、まあそれなりに山形の本家周辺を調べることになったのは史学科卒だからかもしれない。


 山形駅前。街はすでにまつりの準備が完了していた。

 翌日、山形市内散歩。

山形城(霞城)

城の石垣周りを散歩できる。木々に覆われた道は太陽をさえぎり、気持ちよかった。木陰にずっといたかった。

旧山形県庁

 近代化という点では山形県令(知事)になった三島通庸(みちつね)が、良くも悪くも強いリーダーシップで山形の礎を築いた(ただ、現存する旧県庁は三島時代のものではない)。そして照り返しが厳しい。

 三島は薩摩出身で、明治新政府による近代化推進の立役者の一人である。土木県令とあだ名されるほど建築から道路開通に熱心であったが、その強権ぶりに反発も多かったという。

 なお、写真の三島通りは、三島県令時代に作られたとのこと。一直線な道が、まさに造られた道と思う。ただ、やはり暑い。

山形県立図書館

 もともと涼みたくて入ったのだが、親に教えてもらった山形の親族の住所が最上川流域と分かり、そこの自治体史を読んでみる。最上川は水運が盛んで、その恩恵は大きいが、同時に氾濫もよく起きており、曽祖父もその影響を受けたのではあるまいか。農家の口減しとして僧籍に入るのはよくあったはずである。本の中に、大洪水が起きて家屋が流されたとの記述があり、その家の持ち主の苗字が同じだったことが、自分の中の信ぴょう性を高めることになった。

 

翌日、最上川流域へ

 山形駅からバスで30分足らず。一面に広がる田んぼを前に、先祖の自然との格闘を想う。新幹線の時間を気にしながら、郷土資料館と町歩きを可能な限り。でも、思うように動けず。

 暑さがここまででなければ、もう少し…などと思いはあるが、できる範囲でルーツの一端を見ることができた山形行きであった。後半は、調査みたいになったのはご愛嬌。


 確認の必要はないのだが、今年の夏は暑かった。


 9月も下旬になって、ようやく秋を感じるようになった。関東地方平野部は、湿気が一気に乾燥へと切り替わる日があるのだが、それもまもなくだろう。

恒例の彼岸花。

そしてコスモス。


 今年の酷暑を振り返るに、お金と時間に余裕があるなら、本気で避暑を考える必要があると思う。無理だけど。夜になれば一息つける、わけでもなくて、熱帯夜が当然であり、これから年々辛くなるのだろう。あまりしたくもない覚悟をしてしまった。


 入谷の朝顔市で購入した朝顔(団十郎)だが、花が咲かなくなってしまった。涼しくなっても咲く気配を見せず、枯れはじめている。


 そんな中、母が大腸がんと診断された。

定期検診で再検査となり、その日のうちに父が呼ばれた。血便にも気づいたはず、とのことだが、わからなかったそう。ちなみに、自分自身も血便の色など今回初めて知った。よほど意識しないと気づかない。それから1ヶ月半。入院、手術まで漕ぎつけた。母は淡々としているが、父がまいっているようだ。サポートできるか不安になりつつ日々を送っている。

もう平場から富士山が見えないことがわかった。

近所で平場から富士山の見える場所、なかなか無いだけに、覚悟はしてたが、残念との気になる。