「水球のまち柏崎」と東京五輪の誤算 1/2 | 猫と、水球。

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「水球のまち柏崎」と東京五輪の誤算 “皇帝”青柳勧、シンガポール代表率いる狙いとは

配信 THE ANSWER

 

水球の元日本代表が挑む競技環境の発展

 

ブルボンKZを創設し自らも長年プレーした青柳氏。クラブの発展に向けシンガポールで新たな挑戦に動いている【写真:ブルボンウォーターポロクラブ柏崎提供】

 

 水球界に「皇帝」と呼ばれた選手がいる。欧州でプロとしてプレーした元日本代表の青柳勧氏(42歳)だ。帰国して新潟県柏崎市に水球のクラブチームを創設し、今はシンガポール男子代表監督を務める。型破りな挑戦を続ける青柳氏が、日本を飛び出した背景には「東京五輪の誤算」やクラブ存続の秘策などがあるという。(取材・文=松本 行弘

 

 青柳が公募で選ばれたシンガポール代表監督に就任したのは2021年2月。それから2年の任期を終えて契約が更新され、23年2月から2期目を迎えた。シンガポール水泳協会の水球部門には、男女の代表監督と、部門全体を統括するテクニカルディレクター(TD)と3つの責任のあるポジションがあり、昨年2月から男子代表監督とTDを兼務している。

 

 「TDの公募に手を挙げて選ばれて、次の男子監督を選ぶことになったのですが、僕が1年間やってきた指導を続けてほしいという要望が現場からあり、特例で二役を担うことになりました。引き続き、代表全体の強化プランをハンドリングしていきます」 

 

 シンガポールで水球は「一目置かれた存在」だという。

 

 「2年に一度開かれる東南アジア大会が一番のターゲットで、水球は球技のチームスポーツでコンスタントに金メダルが取れる。日本で言えばソフトボールのような感じです。アジア全体では日本、中国、カザフスタンなどが強くて、シンガポールは昨年11月に開かれた水球のアジア選手権で6位でした。東南アジア大会ではかつて27連覇していました。年数にすれば50年以上トップに居続けていたのが、2019年に優勝がストップして大騒ぎになりました。柏崎で活動していた頃にシンガポール代表と一緒に合宿などもしていて、立て直しに協力してもらえないかと相談されたこともあり、監督の公募に手を挙げたんです」

 

  就任してからパンデミックにより、海外遠征がなかなかできなかった。昨年5月にシンガポールに東南アジアのチームを集めた国際大会を自分たちで企画して実戦の場を作るなど、難しい時期での舵取りをこなし、オンライン取材で画面に映った表情からは手応えが伝わってきた。

 

柏崎に創設したブルボンKZが選手と地域に与えたもの

シンガポール男子水球代表の選手たちと喜ぶ青柳監督(左から3人目)【写真:シンガポール水泳協会提供】

 

 筑波大在学中に休学してスペインでプレー。卒業してイタリアで3シーズン、モンテネグロで2シーズンを過ごした後に帰国し、2010年に新潟県で立ち上げた「ブルボンウォーターポロクラブ柏崎」(ブルボンKZ)を、青柳は「大成功」と振り返る。

 

「僕は水球選手として本当に、オリンピックへ行って世界のトップチームと戦いたかった。かつての日本代表は、一緒に練習できるのが年間で50日くらいしかなかった。さらに10日程度の海外遠征が1、2回。日本でマイナースポーツの水球は、選手が自腹で遠征費を負担するのは当たり前。選手個人へのスポンサーもつかず、代表選手は飲食店やコンビニでアルバイトをしながら競技との両立をしていました。こういう環境で、フルタイムで練習するプロが集まった強豪国に対抗できるか。このままでは絶対にオリンピックへは行けない。覚悟を持った選手を集めて、一緒に練習できる環境を作るしかない。スポーツには人の気持ちをまとめる力があると思ったので、街を活性化させるためにマイナースポーツを応援しましょう、応援することで地域の経済も回ります、という理論を組み立てて、それが絶対にできると思ったのが柏崎でした」

 

  母校・筑波大水球部のOBが学長を務めていた縁で、柏崎市内の新潟産業大で教えながら、行政の支援や株式会社ブルボンの協賛を受けて、クラブが動き始めた。

 

 「それほどの高給でなくても、企業は水球選手を雇えます。それまでアルバイトでひーひー言っていた選手にとっては大喜びの金額ですよ。仕事が保証されるので、街に選手が集まってくる。チームスポーツなら毎日、同じ場所で一緒に練習できるメリットが生まれる。いつの間にか、地方のクラブに日本代表選手が大勢所属するようになった。我が街に日本代表選手がいる、五輪選手がいるって、街にとっての一つの財産ですから、街づくりのポイントになるんです」 

 

 ブルボンKZは2012年と18年に日本選手権で優勝。「水球のまち柏崎」は定着し、東京五輪代表にも男子3人、女子1人が選ばれた。そんななかで手塩にかけて育てたクラブを離れて、シンガポール代表監督に就任した。