今、改めて2/14の記者会見を思う/「札幌で逢いましょう」 | 羽生結弦さんの見つめる先を見ていたい

羽生結弦さんの見つめる先を見ていたい

羽生結弦選手を敬愛しています。羽生さんを応援する素敵ブログ様方を日々の心の糧にしている、ソチ落ち主婦のブログです。(横浜在住)

五輪閉幕からほぼ2週間です。

隔離観察の期間もほぼ終わり、どうやらオリンピック参加の日本選手団や、他国の選手の方々から感染のニュースは伝わってきませんから、やれ無事であったのだと、胸を撫で下ろしています。


あのバレンタインデーの、羽生くんの記者会見からも20日が経とうとしています。




あの日、様々なメディアが、あの記者会見とその後の個別インタビューの様子を放送しました。

様々な識者の方々が会見について語られました。

そのいくつかは、拙ブログでもご紹介させていただきました。

でも、実は私にとって一番印象に残ったのは、一ファンの感想として語って下さった「フモフモ編集長」さまのコラムでした。

今頃で恐縮ですが、今日は、フモさまが2月15日に発信してくださった記事をご紹介させていただきます。


以下に、その一部を抜粋させていただきます。🙇‍♀️


  「羽生結弦のスケートは、羽生結弦にしかできない」という次なる次元を示した北京五輪の演技は、報われなくても無意味ではない件。」



…何のために生きるのか。


誰にとっても普遍的なその問い。


(中略)


…今大会、羽生氏が挑んだ4回転アクセルという夢。その夢のためにすべてを捧げ、身体を痛めつけ、氷に身体を打ちつけながら、生命を懸ける覚悟で取り組んできたのだろうと思います。これまですべてのことを言葉通りに成し遂げてきた人は、必ずその夢を叶えられると自分自身を信じていたはずです。ほかの誰がどう思おうと絶対にできると、そう思っていたはずです。


(中略)


…この格の選手は奇跡のようなことを起こせます。誰もが「できない」と思ったことをやってのける人がときにいます。凡人はそれを簡単に奇跡と呼びますが、才能と努力と天運によって成し遂げる人がいるのです。そういう人だけが競技を発展させ、新しい次元に進ませます。その人が「できる」と言うのだから「できる」のです。


そのために羽生氏はあらゆる手段で可能性を高めてきたはずです。練習や研究。節制と鍛錬。五輪という未曾有の舞台。勝利への渇望。人々の期待と重圧。最後は不慮の怪我というアクシデントすらも、支えてくれる人への感謝の念や、怪我によって一層研ぎ澄まされた心を得るためのきっかけとした。アドレナリンを出した。火事場の馬鹿力を発揮した。恐怖を超えて、渾身の最大出力を出した。


しかし、成功しなかった。


すべてを捧げて、なお成功しなかった。


「納得」「満足した」「最高点」「9歳の頃の自分自身に褒めてもらえた」といった言葉は前向きに自分を讃えるものではありますが、夢破れたからこそ出てくる言葉だろうと思います。まだ策があり、可能性を感じ、「できる」と思える心があれば、そういう表現はしないでしょう。破れた夢をそれでも愛おしむように抱き締めながら、もう自分以外の誰にも軽々しく触れて欲しくないと突き放された気がします。


この夢は何だったのか。この時間は何だったのか。何のためにやってきたのか。すべてが無駄になってしまったかのように思える挫折のなかで、そこに意味を見い出すしかない出来事に、今羽生氏は直面しているのだろうと思います。学んだことは何もなかった。成し遂げたことは何もなかった。無意味だった。そう思いそうになる自分自身を否定しないと、本当に何もなくなってしまう。あの震災のなかで救えない命を救おうと頑張った人や、助からない命でもがいた人の頑張りを思いながら、無意味だと思いそうになる自分を懸命に否定しようとしている。なのに、難しい。


だから、何を得たのかと問われたとき、ときにそれは質問で返ってくるのだろうと思います。何も得ていない。何も残っていない。無意味だった。そう思いそうになる自分がいるから、もしも何か知っている人がいるなら教えて欲しい。自分は何かを得られたのでしょうか。何かを届けられたのでしょうか。何もないような気がしてしまうのですが、何かあったのでしょうかと。


「ある」


「ある」とだけ言います。具体的に何がと問い詰められても「ある」とだけ返します。たぶんその答えには失望されるでしょうから。認定されましたよ。感動しましたよ。素敵でした。歴史を作りました。後世に影響を与えました。そうした答えはとうの昔に自分自身のなかで試され、失望していることでしょう。そんなことでは納得できないから聞くしかないのですよね。もう意地の張り合いのようですが「ある」とだけ連呼します。「ある」「何が」「ある」「何が」「ある」「ないんだろう」「ある」と。


ここで言い負かされるわけにはいかないなと思います。僕も望み、僕の心が動いた出来事が、無意味だなどとは、たとえ本人であっても言わせない。この戦いに臨む前から、たとえどんな結果で、本人がどんな様子であろうとも、満面の笑顔で「ある」の一点張りで押し戻そうと決めているのです。こちらが「ある」と伝えなければ、それこそ報われないことになってしまうでしょう。あなたは僕のために跳んだのです、そう伝えれば、たとえどんなに自分自身が失望していても、すべてを無意味にはできないはずだ。あなたのなかには何もなくても、ここにある。そういう人がたくさんいる。巡って話を聞くといいでしょう。みんな、「ある」と言うはずです。


(中略)


フィギュアスケートをスポーツや競技として見たとき、そこには何らかの勝ち負けの基準が必要です。より多い回転数のジャンプを跳んだら得点が上がり、試合に勝つのはおかしなことではありません。勝つためにその基準を攻略するのは致し方ないことです。羽生氏が「下で回る」と表現する、踏み切り前に半回転するようなジャンプもそのひとつです。


世界の大半の人は下で回っていてもわからないのです。見分けがつかないのです。見分けがついたとしてもどちらでもいいと思うのです。中継する人やお金を払う人、見て楽しむ人、多くの人にとって、さしたる重大事ではないのです。


(中略)


…本当に勝ち負けだけがしたいなら、そうした攻略法を使う道もあった。しかし、やらなかった。研究はしたけれど、それは羽生結弦のジャンプではないと、否定した。それは競技のなかで勝ち負けを追うことより、大事なものがあったということです。誇りや、美意識や、価値観を重んじたのです。


それでいいと思います。それはこれから大事になってくる次の次元の話だと思います。今大会、スノーボードは判定を巡って揺れました。そう遠くない将来、競技としてより公正になるために、回転数や回転方法が数値化されるようになるでしょう。そして、より高い得点を目指した攻略が始まるでしょう。


それは一定の成功を遂げ、やがて閉塞するはずです。人間が回転できる数には限界があります。10回転技をやられたら11回転技で返すなんてことは不可能です。どこかで皆が同じようになり、行き詰ります。そのとき「スタイル」と呼ばれる個性が再び求められるのです。無意味なもの、数値化できないもの、ただし心を動かすもの。優れていることだけでなく、理由なく心を揺さぶるものが求められるのです。


4回転アクセルへの挑戦は、まさしくそうした「スタイル」であり、「個性」であり、「生き様」でした。人生を捧げて求めた羽生結弦のスケートでした。一番高得点がついている技が決まって、人生を捧げたスタイルが表明されたとき、「そういうものが勝たないといけない」という価値観の更新が起きただろうと思います。「4回転アクセルを決めた天と地と」は、きっとそういう演技だっただろうと確信しています。心揺さぶられ、すべてを超える演技になっただろうと。そして、「こういうことなんだ」と価値観ごと更新されただろうと。


転倒2回という演技にはなりましたが、あの演技だったからこそ心動かされている人は確かにいます。転倒などのシリアスエラーを2回したら振付や音楽の解釈まで点数が引かれるような無意味なルールが、まさしく無意味であることを感じている人は確かにいます。誇り高いジャンプを知っている人がいます。音楽と一体となったひとつながりの演技に魅了される人がいます。勝って一足飛びに時計を進めるには至りませんでしたが、そうでなくても心は動きます。少しずつ価値観は広がっていきます。こんなことを言っても報われないかもしれませんが、そうした価値観に憧れた選手が後につづき、広がっていくような未来もあるだろうと思います。


「羽生結弦のフィギュアスケートは、羽生結弦にしかできない」


そういう演技をしたこと、そういう演技を選んだことは決して無意味ではない。


それはきっと、後の世でこそ認められるようなものだろうと思います。


胸を張って欲しいと思います。



先のことは、今度こそじっくりと時間を置いたうえで言葉にして欲しいと思いますが、僕は次の五輪を目指したほうがいいんじゃないかと思い始めています。目指して欲しいではなく、目指したほうがいいんじゃないかな、という気持ちです。次はまた4つ年を取りますし、怪我も減ることはなく増える一方でしょう。一層難しい大会になるだろうと思います。


しかし、そういう時節だからこそ浮かび上がるものがあると思います。

今大会で連覇が途切れた羽生結弦だから示せるものがあると思います。報われた者しか言えないことがあるように、報われなかった者しか言えないこともあります。その両方を持っている人は特別です。次はきっと「何のために出るのだ」と問われるでしょう。そのとき4年後の羽生結弦が出す答えが楽しみなのです。たぶん、それは「何のために生きるのだ」とほとんど同じ内容になるでしょうから。


いい答えが出そうな気がします。


いい生き様が示されそうな気がします。


まぁ、舞台は大きいほうがいいんじゃないかと思うだけなので、五輪に限った話ではありませんし、必ずしもスケートである必要もないのかもしれませんが。ただ、世界の人にそれを見せずに、日本の人が独占してしまったりするのは、少し申し訳ないなと思うくらいです。エキシビション、出てくれるようなので、存分に楽しみます。羽生氏を褒める会がどこかで別途行なわれたら、とても嬉しいです!




抜粋は以上です。

何を言われても慰めにはならないであろう、あの時の羽生くん…そのやるせ無さ、怒り、失望、諸々に感応した上でできることは「意味がある」と伝え続けることなのだというフモ様の語りに、私は深い感銘を受けました。


ちなみに「羽生結弦を褒める会」は既にネット上では、世界規模で開催されている気がします。ウインク


2/14の記者会見の公式動画です。↓


2/14のNHKの単独インタビューの動画です↓



最近になって、私はISUに対して、別の見方もするようになりました。

羽生くんは誰よりも高い志を持ち、孤高とも言える進化をしてきました。その結果として「芸術と技術の融合」という点において全てのスケーターをぶっちぎって、天上界クラスの選手になってしまった。

北京五輪では、そんな「フィギュアスケートの夢」を体現した存在でありながら、なお至高を目指す挑戦が、スケート界のみならず世界中の人々を歓喜させました。


でも、一方、ISUにしてみれば、「真っ当に評価したら羽生結弦しか勝ち得ない」そんな競技ではマズイ(勝負の面白みに欠ける?)と、ずっと危惧を抱き続けていたのかもしれないですね。ソチ五輪以降、ハビエル君以外には本当の意味で羽生結弦に追い縋っていける選手は現れなかった。

プルシェンコさんの言葉「トップにいる選手が誰よりも貪欲なのだから負けるわけがない」、これ真理です。

ISUは、例えば「単独ジャンプはステップからただちに跳ぶ」という、羽生くん以外殆どの選手がクリアできずにいたルールを、項目ごと削除しました。また、下回りジャンプを条件付きで認め、3Aが苦手な選手らを救済しました。すなわち、競技全体のレベルを抑え、他の選手も"見応えある勝負"に参加できるように画策したのですね。

羽生結弦が進化すればする程、ISUは、あの手この手で、競技を"地上界の戦い"へ引っ張り戻すことに腐心していた…何という悲喜劇でしょう。


羽生くんの生き様が、アートスポーツである「フィギュアスケートの理想形」であることは、北京五輪後の世界中の熱狂が示しています。その演技の価値が、もはやスポーツ競技としての勝敗の枠を超えているのも、周知のこと!


どの世界でも突出し過ぎる存在は、往々にして羨望と嫉妬の対象にもなり易いものです。

「羽生結弦というスケーター」は、時代が進むほどに純度を上げて評価され、更に輝きを増す存在かもしれません。

奇しくも、ディック・バトンさんが「羽生結弦は金や銀じゃない、ダイヤモンドだ」と仰ったように!


ものごとは案外シンプルなのかもしれません。 羽生結弦が「常に人々の心を揺さぶる存在であること」が一番の勲章です。それ故に、私も何百回でも確信をもって「(意味は)ある!」と言い続けられます。


ところで、

フモさまの、「次の五輪を目指したほうが〜」というくだりを読んだ際には、「そんな無茶ぶりを」と笑った私でしたが、羽生くんはまたまた斜め上を行ってくれましたよ。ウインク


「僕も……出たいです(笑」

羽生くんの、この茶目っ気が大好きです。爆笑

これだから、羽生結弦のファンはやめられないんです。ウインク

↓ミケ(たん)様、感謝してお借りします🙇‍♀️



↓miruru様、感謝してお借りします🙇‍♀️





今日も羽生くんを全力応援!ᕦ(ò_óˇ)ᕤ


羽生くんの怪我が早く良くなりますように!

羽生くんが笑ってくださっていますように!

羽生くんの幸せを心から願い、祈ります🙏



画像やTwitterや記事や動画は感謝してお借りしました。


ポチして頂けますと有り難いです