5 senses

人の感覚は 時に 思いがけないほどに 敏感に
僅かな きらめきを 掬いあげたりも するけれど
こんな 並木の シルエット
いつの 夕暮れなんだって 錯覚しちゃうね
海沿いの 直線道路を 夕陽を浴びながら 走っていると
自分でも 勘違いして しまいそうだけど
ウインドウを 開ければ 間違いなく 秋の空気
南国風の樹木も 心なしか 少し 寒そうにみえて
見て 聴いて 匂って 触って 味わって・・・
五感が 捉えたものに
知識や 経験の 修正値を 加えて
認識 それは 常識?
足して 引いて
切り捨ててしまっているものは ないかな
掛けて 割って
四捨五入の 捨ててしまったところに 大切なもの なかったかな
こころは
一かけらだって こぼさないようにね
愛すれば
すべてが いとおしいのだから
「 いそしぎの島 」 松田聖子
※ Twilight 透明なメランコリー・・・ これも季節感ないかな(笑)
見えないもの

見えないものを 見ようとする
それが 芸術という 行為であるならば
舞台であれば 作品を 役者を 通して
それを 垣間見よう とするのが 観客であろうか
シルヴィ・ギエムのボレロから 一週間が経った
彼女もまた 円卓の上で 祈りを捧げ
私は 巫女の姿を通して 神の声を聴こうとした
劇作家の 故・太田省吾は 演劇について
“ 見えるもののかぎりない美しさをとおして、「見えないものの見えなさ」にきづかせる ”
ことであると 述べている
「見えないものの見えなさに気づく」
ここにこそ 感動 というものが 所在しており
その体現こそが 観衆の 祈りと願いを 一身に背負った ダンサーに 求められる 資質だろうか
ギエムとドンに あって 他に ないもの
ギエムとドンに 通じるもの 異なるもの
そのようなことが 容易にわかろうはずも無いが
受けた感動の源を それが 何ゆえなのかと 考えてしまうのは 自然なことであろう
スゴイものはスゴイ そんな 身も蓋も無い 結論が透けて見えそうだけど
あの時を 思い返しながら あれこれ 考えてみるのは 悪く無い時間だ
この問いは 相互読者に させていただいている
御伽野ありすさん からも発せられたもので
やはり 二人はスゴイ という結論をみたのですが(笑)
ギエムとドン その相似と相違について
「ベジャールの振付たボレロを追求した結果、それぞれが行き着いたところ」
とのお考えを伺い 思い浮かんだことを 少し
元ニューヨーク・シティ・バレエ団の プリンシパルを勤めた スザンヌ・ファレル
バランシンの最後の恋人と言われ その後 ベジャールの元で ボレロも踊った
そんな ファレルが ボレロ ベジャールについて 興味深い 言葉を残している
ボレロは 冒頭 絞られたスポットライトにより 身体の一部分のみを 見せていくのだが
これを
「スポットライトが動いてゆく過程で、それら身体の部位のひとつひとつが持っている催眠的な能力を、それぞれ切り離して引きだしてゆく。その上でそれらすべてを最後の絶頂へと向って、もう一度結びつける、それが『ボレロ』という作品の醍醐味」
であると
評論家 三浦雅士の表現では
「ベジャールはまず、ダンサーを、身体にまで、肉のかたまりにまで、還元してしまうように思える。その作品は、そうでなければ発生しえないような身振りに満ちている」
と
これが ベジャールの手法であり その振付を極める ということなのか
そして その 良質の 最上のものこそが ドンであり ギエムであると
では その極めた先の 相違は 何ゆえかと言えば
鍛錬や訓練により ある意味 すべて 削ぎ落とされて なお 残るもの
それはもう 擦り減ることもない 強靭 強烈な「個性」
それゆえとしか 言えないように 思われる
逆に言うなら その「個性」を持つ 二人であればこそ
「ベジャールのボレロ」を モノにする事が 出来たのかも知れない
これについても ファレルが 自伝の中 エピソードとして
「ジョルジュ・ドンが、ライオンのごときブロンドの髪を振り乱して踊るさまを見て、赤面した」
とある
ここで ドンの踊るさまを 想像する私には 冒頭に書いた
見えるもののかぎりない美しさをとおして、「見えないものの見えなさ」にきづかせる
との言葉が より深く 思い起こされる
先の 三浦の言葉を借りるなら
「恥ずかしさを感じさせるほどのダンサーでなければ存在価値がないのである」 と
切り離された身体を 再び 結びつけて
個性と言う 衣を纏い 圧倒して 際立つ ダンサーの姿が そこにあるのだ
・・・・・・
このように 長々と書いてきて まだ 何も語れていない 気がします
そして これ以上 語ることが 難しいとも(泣)
現状 途中経過 いつ答えが出るやらと 思いますが・・・
好きになったら もっと知りたい(笑)
衝動的 見切り発車の 駄文 お許し下さい
けれど
ボレロ ベジャール ドン ギエム・・・
憧れるもの 愛するものと 出会えたことに 感謝します
最後に 文中でもご紹介の ありすさんから 教えていただいた
ベジャールの父であり フランスの哲学者 ガストン・ベルジュの言葉を
地上の世界に未練はない。
卑しむべき権力にも、壊れやすい快楽にも。
私は人間のことを考えずにいられない。
この世にはふたつの貴重なものがある。
ひとつは愛。
そしてふたつ目は、これよりずっと後になるが、知性。
そしてこの両者は、本質的にたいして変わらないのだ。
ありすさんも この言葉を ベジャールの人生のようだと おっしゃっていますが
ほんとに その通りだと 思います
ダンスを 芸術を 創り上げるとは 愛の所為であると つくづく思うのです
とりとめの無い長文 最後までお付き合い ありがとうございました
御伽野ありすさんは 芸術のみならず 広範な知識をお持ちで 素晴らしいブログを書かれています
もちろん ベジャール ボレロについても 何度もお書きになられています
ぜひ ご覧になって下さい
→ 御伽野ありすさん ~しなやかに生きる~
無言の時、無限の光

まぼろしを 視てしまいそうなほどの 静寂
風もなく 音もない 世界
水面を かすかに 渡っているのだろうか 風は
きらめく 光の反射から 音が 零れてきそうなほどの 沈黙
いま ここに あって
いのち あるものは 光だけのような
木々も 人も 月日も 曜日も 名を失って
光が すべてを 染めて 支配する 世界
まるで すべてが 止まってしまった かのようでいて
天壌無窮 不思議な 無音の 透明感は
どこまでも 果てなく ひろがっても いるような
私の意識も 光の中へ 溶けてしまいそうになる
光に 闇の
柔らかな 手が 伸びて
沈みこんでしまいそうな
刹那
一羽の 水鳥が
水面を
昼と夜の 隙間を
滑った
私も 時を知り
ひとつ 咳払いをして
木霊す この 世界を 手探ってみる
手に 肌に 五感に 触れるものを
そして
また
騒々しくも 懐かしき
安堵へと 帰る
「 Memories of Green 」 Vangelis
※ like tears....in rain