同居する93歳の父(以下「爺ちゃん」)はネガティブ思考満開の人で「一寸先は闇や」が口癖だ。
地方の大学を来春卒業予定の娘が「就職先に関西もアリ」と言うが、僕は「地方大学の卒業生はみんな東京に行くんだと思っていた」と答えた。
もし娘が大阪の実家から勤めに出ればトータル生活費は軽くなるし、娘は寝食でゆとりができるだろう。わんこ達の面倒も分担できて僕も二泊以上のキャンプが可能になる。爺ちゃんも喜ぶことは間違いない。
にも関わらず、僕が娘の同居を躊躇う理由はただ一つ、爺ちゃんのネガティブ思考だ。
将来のことは誰にも解らない。そのことを「闇ばかりだ」と決めつける老婆心のシャワーを浴び続けることが若い人間の芽を摘み取ることは想像に難くない。
「解らない」ことが「不安」に繋がりやすいことは事実だ。種の生存競争の中で遺伝子に組込まれた本能ともいえる。
この不安をどのように乗り越えるのかこそが人の「器」であり「度量」だと僕は思う。器の小さい人間ほど些末な不安に振り回され、あるいは猜疑心に苛まされる。
人間の器を大きくする王道は「乗り越えた経験」だ、「何とかなるやろ」。「最悪でも対応出来る」という、経験に基づいた自信こそが心を不動にする。
世の中は常に変化している。過去の経験則が必ず通用するとも限らない。科学も万能では無い。しかし科学に基づかない勇気は時として蛮勇として痛いしっぺ返しを受ける。
それでも良いのだ。世の中が変化しているならば「チャレンジ無くしてアップデートなし」だ。
観察し、判断し、行動する。それを続けない限り、適応は陳腐化し、成長は止まる。
疲れている時は平穏や安らぎ、寛ぎ、癒しなどが「求めるもの」になるだろう。それはそれで正解だ。元気が戻って来ればまた明日に向かって立ち上がれば良い。
「ベストを尽くす」「よりベターを求める」姿勢は素晴らしい心掛けに見えるが「向上心」は常に現状を否定する。
緩急が大切だと僕は思う。「足るを知」った上で「よりベターを求め」るような生き方が出来れば、日々が幸福だと思う。
自身の感じる幸福は結果的に他者に対しても慈愛のこもった対応ができる。「他人の不幸は蜜の味」というのは、本人が満たされていない裏返しなのだ。
人が集まると、様々な序列が生まれ、あるいは他人との比較が芽生える。これは自身の絶対的な幸福感が成熟していないからだ。自分が何を求めているのかが解らないので他人との比較で満足度評価をしている。
……そんなことをダラダラとドトールで考えている。
あ、ちなみに僕も「迷える子羊」の一匹です。でも神は信じていません。霊感が全く無いので、神を見たことも感じたこともありません。カルトを楽しむのは楽しいかもしれないけど、信じてしまうと「使命」の名の下で自分を見失ってしまいそうだ。どうせ信じるならば「数学」と「愛」だと僕は思っています。
僕には「推し」もいません。自分の幸福を誰かに託すのは違うと思う。