ウツと株とプログラミング

ウツと株とプログラミング

うつ病で引退して、株トレードシステムを構築してたけど、ちょっぴり元気が戻ってWebデザイナーとして社会復帰しました(*'▽')/

今日は早起きをしてわんこ達を散歩に連れて行ってやろうと思っていました。


でも寝起きは怠く、布団の上でゴロゴロしているうちに昼前になった。


遅めの朝食をとり、またダラダラして、結局散歩は夕方になった。


最近体調が優れない。更に悪化している気もしている。この1ヶ月はヨガ教室にも行ってない。


仕事のペースも目に見えて遅くなった。


何もかもリセットしてしまいたい衝動が行き来するけれど、就職してまだ3ヵ月しか経ってないし、これといった実績もあげていないので、休職という選択肢は望めない。


65歳まであと4ヵ月。高齢障害者に再就職のチャンスは望むべくもない。


働かずともギリギリ生活はして行けるだろうが、水戸黄門の再放送を見ながら余生を過ごすことを想像するとゾッとする。


今は全てを投げ出したい気分だけど、その後に復調したら悶々とした日々になるだろう。


かといって、体調を誤魔化しながら仕事をしていても結局続かない予感がする。かつてのうつ病再発のパターンを彷彿とさせる状況。


このままだと、程なく倒れる予感。ならば、先ずは今の生活をリセットするところから始めるのが筋かな?


体調が回復すれば、その時にもう一度考えるというのが冷静なシナリオなのかな?


今は自分の思考が正しいのかどうか、自信が持てない。


体調が回復しても、その時に選択肢はほとんどないんだろうな。


事故死したい。


自殺願望はないけど。




読んでいて、いちばん気になったのは最後の二行です。

「自殺願望はない」という感覚はそのまま受け取ります。ただ、「事故死したい」も、今かなり消耗していて「自分で終わらせるつもりはないけれど、何かが自分を終わらせてくれたら」という方向へ気持ちが傾いているサインだと思います。


これは、仕事を続けるか辞めるかを一人で考え続ける段階を少し越えています。

今夜は、退職も休職も障害年金も「65歳以降どう生きるか」も、結論を出さなくていいです。

むしろ今の状態で人生の長期予測をすると、「体調が回復しても選択肢はほとんどない」という方向に思考が引っ張られやすい。それが事実なのか、今の体調がそう見せているのかを、今は判別できないというのが一番冷静な見方だと思います。


そして昨日話していた順番でよいと思います。まず主治医です。 

「最近さらに悪化している感じがする」

「朝起きられず活動量が落ちた」

「仕事のペースが目に見えて落ちた」

「以前の再発パターンに似ている」

「全部リセットしたくなる」

「自殺するつもりはないが、事故死したいと思うことがある」。

ここまで、遠慮せずそのまま伝えてください。


主治医は以前にも、就労できていることと病状が軽いことは同じではない、という趣旨であなたの状態を見ています。

そのうえで、「今の仕事を続けながら治療する状態なのか、いったん仕事から離れるべき状態なのか」について医学的な意見をもらう。 


それから上司に相談する。この順番なら、「もう嫌だから辞めます」でも「何が何でも4か月耐えます」でもなくなります。

ひとつだけ、今日の出来事については違う見方をしていいと思うんです。

朝できなかった散歩を、夕方にはちゃんとわんこ達とした。


これは小さいようで、今の状態を考えると結構大事です。「今日は何もできなかった」ではありません。朝の計画どおりには動けなかったけれど、夕方になって少し動けるところまで戻った。それくらいの時間尺度で、当面は自分を見たほうがいいと思います。

「生活をリセットして体調を回復させ、それから考える」という発想そのものは、筋が通っています。ただし、「リセット=退職」と今夜決めてしまう必要はありません。 


まず「仕事より治療を優先する期間が必要なのか」を主治医と判断して、その結果として休む・勤務を調整する・退職する、という順番があります。


それから、

「水戸黄門の再放送を見ながらの余生」

という未来と、

「体調を誤魔化しながら今の仕事を続ける」

という未来の二択ではありません。


今はその二つしか見えなくなっている可能性があります。65歳以降に、フルタイム雇用とは違う形でWeb制作をしたり、人に頼まれた仕事だけしたり、短歌やサイト運営をしたり――そういう中間領域はいくらでも考えられます。


でも、それを設計するのは元気になったアキラさんの仕事です。今のアキラさんが全部決めなくていい。


ただし今夜について、一つ約束してほしいことがあります。車やバイクでふらっと出掛けたり、「事故に遭ってもいい」という気持ちのまま危険な行動をしたりしないでください。 


も「事故死したい」が「自分から事故を起こしてもいい」「死ぬために何かしよう」に変わったら、その時点では一人で抱えず、119など緊急の助けを使ってください。


今夜やることは、人生の決断ではなくていいです。ご飯を食べて、わんこ達と過ごして、風呂に入れそうなら入って、早めに休む。それで十分です。


明日は主治医に相談することから始めましょう。 


今の文章は状態をかなり正確に言葉にできていますから、診察でうまく説明できなければ、むしろこの文章をそのまま見せてもいいと思います。



気晴らしにバイクで出かけたら

あかんの(・◇・)?


じゃあ、シャワーしてピールして寝ます。




マップ見て自販機訪ねど麦茶なし
シニアを前に一人たたずむ

あ、これ好きです。かなり現代短歌らしい可笑しみがありますね。 


マップ見て自販機訪ねど麦茶なしシニアを前に一人たたずむまず上句がいいです。「マップ見て」「自販機訪ねど」という、スマホを頼りに飲み物を探す現代の日常。


それなのに、たどり着いた自販機には目当ての麦茶がない。実際、自販機で麦茶を探すという題材そのものに生活感があります。


そして何より、 

「シニアを前に一人たたずむ」 

が効いています。 


最初に読んだ瞬間、「シニアって何だ?」となって、次の瞬間に自販機の商品名(あるいは表示)なのだろうと分かる。

ーーー僕がまもなく65歳になるという意味です(´・ω・`)


この固有名詞っぽい無機質な「シニア」と、麦茶を求めて暑い中を歩いてきた人間が向き合っている。その構図が妙にシュールです。 


しかも「一人たたずむ」が大げさなのがいい(笑)。 


たかが「麦茶がなかった」だけなのに、 


人生の岐路に立ってしまったような寂寥感。 


ここは直さない方がいいと思います。 


ーーーいや、人生の岐路に立っている僕が日常の些細な不運から我が身を思い起こしたのです(´・ω・`)


音数はかなり自由ですが、それもこの歌には合っています。むしろ「マップ見て」「自販機」「麦茶」「シニア」という現代語を、無理に五七五七七へ押し込めない方が面白い。 


私はこれ、日常の小さな敗北を詠んだ歌として結構好きです。「麦茶なし」で終わらず、最後に「シニア」と対峙している自分の姿をカメラで引いて撮ったように見せたところが、この一首の勝ちどころですね。 


ちなみに「自販機+日常のちょっとした不運」は現代短歌とも相性のいい題材で、歌人芸人の岡本雄矢も「飲み物を求めて自販機を探す」という日常の不運を短歌の題材にしています。


これは推敲しすぎない方がいい歌だと思います。ちょっと間の抜けた感じまで含めて味です。


ーーーいや、結構マジで歌ったんですけど(´・ω・`)



道端に干からびをりしキリギリス
我に青春ありしかと問ふ

これは、先ほどの「麦茶」の歌とはまるで違いますね。


こちらはかなり重い。


そして、私はこのまま残してよい一首だと思います。 


道端に干からびをりしキリギリス 

我に青春ありしかと問ふ 


特にいいのは、「青春は終わった」ではなく「青春ありしか」と問うているところです。 


「青春はもう戻らない」なら老いを詠んだ普通の回想歌になり得ます。でもこの歌は、 


そもそも自分に青春なんて、

あったのだろうか。 


と問い直している。 


しかも、その問いを呼び起こすのが、美しい夕焼けでも昔の写真でもなく、道端で干からびて死んでいるキリギリスです。 


ここが強烈です。 


キリギリスにはどうしても「夏」「歌う」「遊ぶ」「生命を謳歌する」といった連想がまとわりつきます。


文学的にもキリギリスは、楽しみ、生命、そしてその終わりまで背負いやすい虫です。


その虫がもう鳴いていない。 


しかも、 

「死にたるキリギリス」 

ではなく、 

「干からびをりし」 


なのがいいですね。乾燥して小さくなった亡骸を実際に見た感じがある。観念から作った歌ではなく、目の前の小さな死から、突然自分の人生へ視線が跳ね返ってきた歌になっています。 


そして文法的にも、 


ありしかは「あり+き+か」で、「あったのだろうか」「あったのか」という過去への問いとしてきれいに収まっています。「問ふ」と旧仮名遣いにしているので、ここも調和しています。 


音を拾うと、 


道端に(5) 

干からびをりし(7) 

キリギリス(5) 

我に青春(7) 

ありしかと問ふ(7) 


きれいな五七五七七です。 


これはかなり大きいですね。内容は「自分の人生に青春はあったのか」という重たい問いなのに、器は端正な定型。


その冷静さがかえって怖い。 


さらに「キリギリス/我に」と、三句と四句の間に大きな断絶があります。 


道端の虫 → 自分の一生 


この飛躍を説明していないのがいい。 


「干からびたキリギリスを見て、自分も老いたと思った」なんて説明した途端、歌が痩せます。読者にその距離を飛ばせている。 


青春を「過ぎ去って二度と戻らないもの」と捉える短歌の伝統もあります。


永田和宏も青春と短歌の結びつきについて論じています。


でもこの一首はもう一段ひねっていて、失った青春を惜しむのではなく、その存在そのものを疑っている。 


そこにこの歌独自の寂しさがあります。 


先ほどのマップ見て自販機訪ねど麦茶なしシニアを前に一人たたずむが「老いの日常をちょっと笑って眺める歌」だとすれば、こちらは同じ一人の人間がふと足元を見た瞬間、 


「ところで俺の人生って、何だったんだろう」まで落ちてしまった歌。 


私は今回の一首、かなり好きです。「干からびをりし」を綺麗な言葉に替えないことと、「ありしか」を「ありしや」などにいじらないこと。 


この二つは特に、そのままを推します。



ーーーうーむぅ……。チャッピーにはまだ短歌は無理かな(´・ω・`)



今朝あまりやる気が出なくて、お休みを貰いました。


まぁ、丁度タスクのキリも良かったし、

営業施策を考え直すの(ブレスト作業)は業務報告書に成果を書けないし。


鬱の時のブレストはロクな結論にならないし。


ボランティアのHP制作が間に合ってないし。


でね、久しぶりに午前中にわんこ達と長い散歩しました。





わんこ達も暑くて仕方なさそうでした。


気温はさほどではなかったけど、湿度が高くて汗ダラダラです。


午後にスタバで久しぶりにボランティアのWeb制作。


でもマジ体調悪いわ(´・ω・`)


低気圧のせいかな?(´・ω・`)


雲が幾層にもなっていて、不思議な空です。



このまま働いても辞めても生活は回る。

障害年金を貰えても貰えなくても大丈夫。


選択肢が多いと、迷いも多いです。