なんでゴミを拾っているのか | うっぴのブログ

うっぴのブログ

自然を求めて多摩へお引越し。
これと決めずに日々のことを書いています。

本日は最近楽しみにしている週末の散歩(ゴミ拾い)コースへ。

ちょっとした丘。落ち葉ザクザクな道を4回ぐらいジグザグに登っていく。

 

初めて来たときはモンスターが17本、トロピカーナパックが15個以上出た場所。

木々に囲まれ気持ちのいい場所だけど、下を向いて歩いてみるとなかなか手ごわい場所。

 

先週はモンスター9本、トロピカーナとトマトジュースがそれぞれ数パック。

 

本日もモンスターは1日1本計算で出てくるか?と思っていたら、なんとモンスターは1本のみで、その代わりコーヒー3本と、トマトジュースが4つ。モンスターの主は今週はここを通らなかったのだろうか。

 

そして今日は初めて丸太の階段を登ってみた。途中にちょっとした休憩場所があり、見ると丸まったティッシュとビニールの個包装袋が散乱していた。こりゃまぁ、ねぇ...。やるか、と一呼吸してから拾いにかかる。

散らばった袋は10個くらい。なんの袋か気になり1つよく見てみたら、なんとカンチョー。しかしカンチョーの容器は1つも見当たらなかった。袋だけなんて、こんな不可解なことがあるだろうか。

すぐそばにきれいなエコバックがあり、中に未使用の箱ティッシュ2、3箱と、イヤホンか何かの箱が見えた。ゴミだかなんだかわからないし、どのみち手がふさがっているのでそのエコバックは口元が下になるようにして置いてきた。

 

私が拾っている間、誰かが登ってくる気配があり緊張が走ったけど、母と娘らしき二人組で、少し足を止めてからそのまま登って行った。ホッとしつつ、やはりここを通る人もいるよな、ちょっと間に合わなかったけど次通る人が気持ちよく通れればいいなと思いながら、拾い終わり、私も上まで登りきる。

 

↓前回のモンスター。(演出あり)

 
 

私は好きでゴミを拾っている。

だから、週末何をしているの?と聞かれ、「散歩しながらゴミを拾っている」と答えたときに、「ボランティア?」と言われるとちょっと回答に困る。「いや、ボランティアではなくて…」と言ってみるけど、私が市から町のゴミ拾い用に無料でもらっている袋には「ボランティア袋」と書いてある。

 

ゴミ拾いって、ボランティアなんでしょうか。

 

出かけるときに、「ハンカチ持った?」というのと同じぐらいの感覚で、「トングとビニール持った?」と聞くのが普通にならないかな、小中高でそういう月間を作ったら、何人かは月間が終わってもそれを日常にする子が出てくるんじゃないかな、なんて思う。

 

うちの玄関には、ミニトングと小さなポリ袋を必ず用意している。出かけるときでも忘れず持っていけるように。持ち忘れたときは本当にへこむ。ハンカチを忘れたときとの「あちゃー」とは種類が違う。

 

目の前のタバコ1本拾うのに3秒とかからない。そのタバコを拾えないと、もう二度と出会えないのではないか、誰かに踏まれ、ちりぢりになり、風に飛ばされてしまうのではないかなどと考える。

出勤時で拾えないものがあると、拾いに来るからそこで待っててくれよ、なんて思う。そして帰宅時にまだそこにあると、あぁ無事でよかったと思って拾う。

 

 

何のために拾っているのか。

 

1番の理由は楽しいから。

ポケモンGOはやったことないけれど、それと同じ感覚ではないだろうか。何でこんなところに?とか、今までどうやってここに潜んでいた?みたいなものを見つけると、レアものをゲットした気持ちになる。それに、芋ほりや潮干狩り(やったことないけど)と同じような楽しみがある。探す、拾う、袋に詰める、という一連の流れはゴミ拾いも一緒だ。

 

自然が近いからという理由もある。

今住んでいるエリアは自然が多く、川も流れている。川にはカモの親子やアオサギもいる。そんな場所を、缶やラーメンカップ、タバコが流れていくのはとても悲しい。

川に届けばそのまま海まで流れてしまうかもしれないと容易に想像できる。生き物へのダメージへ直結している。自然豊かな場所にはゴミはとてもミスマッチだ。

これが川から遠く道路しかない都会だってら、そこまで気に留めていないかもしれない。都内から多摩に越してきて、誰に聞くでも見るでもなく、川沿いを歩いていてふとゴミを拾ってみようと思ったのだから。

 

ちょっとは誰かの役に立っていたら嬉しいという気持ちもある。

夕方川沿いを歩く高校生カップルを見かけたとき、昔の自分を思い出しながら、あぁ、彼らはこの後あのベンチに座るかもしれない、そこには今きれいだよ、座って大丈夫だよ、なんて考えたりした。(彼らはそのあと対岸を歩いて戻ってきた。おそらくどこに行くでもなく、ただ一緒に歩いて時間を過ごしているだけの様で、きゅんとした)

 

↓その川沿い。最近よく缶が立っている

 

子供に見せたくないものを拾った時も、ちょっといいことしたかなという気持ちになる。程度のひどいゴミもそうだし、たまに遭遇する18禁のものなんかもそうだ。こういうものは自分も関わりたくないけど、子どもにはもっと見せたくないから、無心に努めてささっと拾う。

 

自分とは違う生活を考えるきっかけにもなる。はじめのうちは、何でここに置いていくの?持ち帰ってよとしか考えていなかったものが、ある時から、こうするしかなかった事情があったのではとと考えられるようになった。

誰かと暮らしていて持ち帰れない事情があるかもしれないとか、持ち帰りたかったけれど友達といて言い出せなかったとか。

だからといって放置を容認すわけではないけど、いろんな生活、状況を想像する。

自分を中心に考えてはいけないなと思う。そして、自分にできることをしようと考える。

 

 

何かで読んだか聞いたかしたのだけど、人生の前半は誰かにしてもらうことに幸せを感じ、人生の中盤は自分自身にしてあげることに幸せを感じる。そして後半は誰かに時間を注ぐことに幸せを感じるのだと。

そうだなと思う。もう、自分をどうのこうのして得る幸せには限度があるなと。

 

 

本日の散歩(ゴミ拾い)中、前方に大きな銀杏の木があらわれて、その時ばかりは足元ではなく銀杏を見つめ、近づくにつれどんどん見上げながら、真正面で立ち止まり、わぁすごいなぁ、きれいだなぁと思った。

すぐ横のベンチに座っていたおじさんも銀杏を眺めていたので、思わず「きれいですね」と話しかけた。おじさんが、あぁ、と返事したかは定かでないけど、私のトングを見て「そのはさみは何?」と聞いてきた。「ゴミを拾ってるんです、ゴミです」と私。ちゃんと状況が伝わったかわからないけど、軽く会釈して後にする。

 

この前はちょっと離れたところから、きれいな装いをしたご婦人に「何を拾ってらっしゃるの?」と声をかけられた。「らっしゃるの?」なんて上品な言葉遣いをされたことにドキドキしながら、「ゴミです」と答えたら、ご婦人は「あら、ぎんなんか何か拾われているのかとと思ったわ。ありがとね」と言って、先を行く二人組についていった。

そうか、ゴミを拾っているとは思わない人もいるよな、と思った。

 

今度また聞かれたらもっと気の利いた応えはできないかな、とこれを書きながら考える。

「ゴミ」なんて単語はちょっと耳あたりよくない。「落とし物」とか「忘れ物」?いや、ちょっと皮肉めいているか。半分本気で鴨の恩返しを期待している私でも、「運です」とは恥ずかしくて言えないし、瞬時に伝わらず混乱させるだけだろう。

 

 

落ち葉が道の脇に積もっていて、わざとその脇を好んでザクザク音を立てながら歩いていたら、向こうからコーギーがやってきて、なんとそのコーギーも脇に積もった落ち葉の中を明らかに好んで歩いている。足が短いから体の半分ぐらいが落ち葉に埋もれている。落ち葉の感触が楽しいのは人間も犬も一緒なのねと思うと、どっちがどっち寄りなのか考え笑ってしまった。

振り返り、コーギーのゆれるお尻をしばし眺める。