投げっぱなし懺悔
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「過去を捨てたいのですが、何曜日に出せばいいですか?」

A:「はい、こちら堂麗市衛生組合です」

B:「すみません、捨てたい過去があるんですが、何曜日に出したら回収してもらえますか?」

A:「過去ですか?時間外で私の家にて回収いたしております。事前に持ち込みの日時をお知らせください。」
「・・・また、回収の際に過去の内容物を確認させていただくようになっておりますのでご了承ください。」

B:「モノによっては回収をしてもらえないこともあるって聞いたんですが・・・。」

A:「はい。性質上、処分しかねるものが多くあるんです。その場合は同意がいただけたらまたお持ち帰りいただきます。もちろん、同意されない場合は処分をしますので、ご安心ください。」

B:「処分しかねる、とはどういうことですか?」

A:「はい、しばしば、ご本人様は不要と考えていても、もう少し期間をおくと、何にも代えられない価値を持つ場合がございます。また、そのような物が持ち込まれることも多いんですよ。そのため、相談の上処分を決めるようにしております。」

B:「ありがとうございました。また後日、持込みの日時を連絡させてもらいますね。」

A:「よろしくお願いします。では、失礼します。」

自分の代わりがいるはずがない

私の代わりはいない。
「お前の代わりなんていくらでもいる」という奴は甚だ見当違いだ。
その言葉が真実ならば、今すぐ代わりを用意してみろ。

そんな奴がいる場所からは、できるだけすぐに去るべきだ。
奴らは人ではない。コミュニケーションをとろうとしても無駄だ。
ただし、すぐに去れないのは自分の責任として認めなければならない。


ましてや、「私が死んでも、代わりはいるもの」と自らを貶めるようなことを言うなんて全く意味が分からない。
彼女は確かにフィクションの住人かもしれないが、たとえ架空の存在でも彼女は彼女であって代わりはいないのは誰の目にも明らかなはずだ。


・・・全く意味がわからない。

前世があるとしたならば

全ての物に、前世があるとしたならば、
少なくとも我々のような「深く考えるもの」には耐えられない苦痛だろう

深く考えるということの良し悪しは別として、とにかくヒトは様々なことを考え生きている。
そのような物が、前世を記憶したままヒトとして生まれ変わったら、

ヒトとなる以前にどのような出会いをし、別れを経験し、死んでいったかも覚えているということになる。


その結果、利己的で傲慢な嫌悪していた物、つまりヒトに生まれ変わってしまったことに絶望してしまうだろう。
だからヒトは、前世を覚えていないのだ。


もしかしたらヒト以外のあらゆる彼らは、彼ら自身の前世を知っているのかもしれない。

休み

三連休の最後にして抜け殻のような生活をしていたので抜け殻のような文章しか書けない


今日はこれで終了、解散!

金で買えるもの、買えないもの

金で買えるもの、買えないものを考える前に、なぜ人は物を買うかを考える。

心を充たすためだ。自分の理想を実現させるために、物を買う。食べ物であったり、服であったり、金で買えるもの全てにあてはまる。

つまり、金で買えるものは金がなくても得ることはできるのではないか?
物を買うのは手段であって、目的は心を充たすことだ。
物を買う以外の手段によって、心を充たすことも不可能ではないはずだ。

そう考えると、金がないという危機感が紛らわされ、少し気持ちが楽になった。

果てしない孤独感

休日、空を見る

風が強い


流れていく雲
そこを走る一粒のカラス

ここからの情景と、それに対する心の動きは自分しか知らない

それぞれが抱く、刹那の感動に伴う果てしない孤独
たとえ今、隣に大切な人がいても、全く同じ感動とせつなさは共有できない

猫や犬や鳥やカエルは、何を考えているのだろう

僕と同じように、果てしない孤独を感じてはいないだろうか


君の涙を見て、涙を流した僕は、君の本当の悲しみを知っていたわけではないんだ。
君の本当の悲しみを知ることが出来ないから涙を流しているんだ。

信用社会こそが不安の根源

見知らぬ他人にお金を預けるのはありえない。
銀行にお金を預けるのは平気でするのはなぜだろうか。

それは、信用しているからだ。

しかし、本当に信用できるのだろうか?
もし銀行が破産寸前で預けたお金を返してくれなかったら・・・
もし報道番組が口裏を合わせて、嘘の報道をしていたら・・・

「この世の中は信用社会だから、そんなことは許されない」

その言葉は信用できるのか?誰がその嘘を見破り、誰が許さないのだろうか?
また、見破り許さない誰か自身が、嘘をついて信用させようとしていたら・・・?

信用社会を信用するな。

不可能だ。
生きていくには社会に属せねばならない。

となると、信用社会の現代から離脱するしかない。
人はそれを「社会不適合者」と呼ぶ。

信用すると同時に、無意識に誰もが、自らに問いかける。
「信用の根拠はあり、その根拠は信用できるのか」
それが漠然とした不安を生むのである。
不安を抱きながらも、人は、ただ信じるしかない。

他人に優しく自分に厳しく

「他人に優しく自分に優しく」などはダメな自分を正当化するための最低な考えだ。ましてや、
「他人に厳しく自分に優しく」なんて言語道断。
「他人に厳しく自分に厳しく」あるべきだ。

そう信じて生きてきた。
間違いだった。過去の自分を見つめなおして、果たして「自分に厳しく」生きていただろうか?

「他人に優しく自分に優しく」どころか、
「他人に厳しく自分に優しく」生きていただけだった。


自覚をしていないだけで、最も自分が軽蔑する生き方をしていた。

無自覚による犯罪は、故意犯よりも悪質だ。

こんな犯罪者にも少ないけれども友人や恋人、同僚や見守ってくれる家族がいる。
しかしそれは、彼ら彼女らの優しさによる関係だった。

無自覚による犯罪に寄り添うは、無自覚による優しさ。

他人に優しく、自分に厳しく生きていく努力をして少しでも償わなければ私に未来はない。

どうか、償うことで生きさせてください。

行動の伴わない言葉ばかり発してはや1年

口だけ達者になっておよそ1年。
それでも、偉そうにもせず、行動も起こさず無為に過ごしてきた何十年よりかはマシかと思う。

まずは、口だけでも達者になるべき。そのうち自己嫌悪に耐えられず行動することになるに違いない。

というような自己分析をしていたら一日終わってた。

私もあなたも愚者の子孫

独り身の人は賢い人間だ。
一時の感情で「好きだ」とか「愛している」だとかいう訳の分からないことを言い出す奴らが賢いわけがない。
愚か者が子孫を垂れ流し、賢者はさっさと死んでいく。

世の中が腐っていくのも当然だ。

恋人?夫婦?
愚か故に後になって気づく、「こんな人だとは知らなかった」。良くも悪くも彼は彼女の、彼女は彼の本当の姿を知る。
しかしそれでも、理性の発達しなかった人種は本能に操られて子孫を残していく。
「こんなはずじゃなかった」の後に行き着く先は「それでも、かつて私の愛した人だ」という現実逃避

所詮愚かな者は、愚かな思考により逃げるしかないのだ。

そうして生まれた我々が、賢者のDNAを受け継いでいることがあろうか?
元から私たちは、生まれた時から人類の中でも最低レベルな存在なのだ。

偉人?天才?そんなものは既に存在しない。
彼らはもう既に死んでいる。
今いる奴らは全員クズだ。偉そうだったり天才のように見える幻想だ。
そして私も最初からクズだ。クズしかいない世の中だ、好きなようにやらせてもらう。

一度きりの人生、努力してあがこうじゃないか。

諦めるのも良い。自分がやらなくとも誰かがやってくれよう。

愚か者らしく欲望に正直に生きたらいい。

愚か者に殺されたくなければ、目立たず、時には自らを殺そうじゃないか。

何をするにしても、複雑なことはない。
周りには馬鹿しかいないのだから。私は馬鹿なのだから。

馬鹿は騙しやすいということだ。