2024年 5月 9日&10日、岡谷市、諏訪市、茅野市に行ってきました。

 今回は4回目。4社で構成する諏訪大社にあって最古の社、上社前宮です。

 

信濃国一之宮

 諏訪大社 

  上社前宮 かみしゃまえみや

 

『延喜式』(927年)に記された社号

→諏方ノ郡二座 

 南方刀美神社 二座

(みなかたとみの かみのやしろ)

 

 上社本宮を出発して前宮まで1.5km

 途中、藤森の「マキ」、神長守矢史料館&御社宮司総社、峯の湛などを訪ねつつの移動でした。これだけ寄り道したので、距離を感じることなく前宮に到着できました。

 

 写真は参拝所。

 瑞垣の中に本殿が鎮座します。 

◇鎮座地:長野県茅野市宮川2030

◇最寄駅:JR中央本線茅野駅~2.5km

◇バス便:上社バス停~1.7km

 上諏訪駅発かりんちゃんライナーorかりんちゃん外周線

◇御祭神:建御名方神・八坂刀賣命

 (たけみなかたのかみ・やさかとめのみこと)

◇御朱印:あり

 

 

「前宮」と命名された理由

 ◇時間的理解

 本宮より歴史的に先行した社だから

 

◇空間的理解

 諏訪明神の御陵の前にある社だから

 

両方の意味をこめたのかも。

 

 

斜面に展開する神域

 前宮は、守屋山・山麓のなだらかな斜面に展開しています。

 その神域は、いくつかの石段を上がる「ヒナ壇パート」とスロープを上がる「坂道パート」に分けられます。

 

◆大鳥居

 この大鳥居は白御影石で、最近、国道に面して建てられました。

 当社は入口の間口が狭く、車だと通り過ぎてしまいそう。なので、この鳥居はランドマークとしても機能させている感じです。

 

溝上社 みぞかみしゃ

鳥居をくぐったら、すぐ右手の草むらに鎮座しています。

 御祭神

 高志奴奈河比蕒命

(こしぬなかわひめ)

 

 祠の裏手に水眼の清流が注ぎ込む「みそぎ池」があります。池の水量は僅かでした。

 背後に巨木が聳えています。

「巨木+磐上の石祠」は、当社境内社に頻出する様式です。

 

 本宮では、鳥居を潜って最初の境内社は《建御名方神の御子神を祀る》出早社。

 前宮のそれは《建御名方神の御母神を祀る》溝上社。

 この統一性は計算されているのでしょうか…。

 

 参道に戻ると、やや長めの石段が出現します。

 中ほどまで上がると「御手祓道」の遺構が石段を横切ります。

 

◆御手祓道跡(おてはらいみち)

 この道は「大祝就位式」や「大立増神事」など重要神事に使われました。

「聖なる道」は、この先にある十間廊や内御玉殿などの裏手も通過します。陸上競技のトラック的な周回路です。

 

「御手祓道」を横断し、石段を上がりきります。

 すると、またしても参道を横切る道が出現します。

 この道は「高道」といい、クルマも通ります。

 

◆高道(たかみち)

 この道を境として、神域に大きな段差があります。

 理由→この場所が断層崖となっているためです。

高道(赤ライン)と御手祓道(青ライン)で形作る半円状の地域を「神原」と呼びます。

 

【神原】ごうばら

 かつての「神原」は、上社の核心的神域。

  多くの重要神事がこの地で斎行されました。

 

◆手水舎

 

◆二之鳥居

 

◆狛犬と若御子社

 前宮は狛犬がいない神社でした。しかし、平成時代に建立されました。建立反対の声が少なくなかったようです。

 

 若御子社の祭神は、建御名方神の御子たち22柱。

 元旦、大祝以下の神職は正装した上で当社に参拝したそうです。

 

◆神殿跡

 「しんでん」でなく「ごうどの」

 大祝の居館 の呼び名でした。

 

 上社本宮・参拝所の視線の先はこちら。すなわち「生きた神様」への拝礼でした。

 図式化すると

《上社本宮 参拝所→幣拝殿→神居(ここまで本宮)→上社前宮→神殿

となります。

 

◆内御玉殿(うちみたまどの)

読み=「でん」ではなく「どの」

 当社の御神宝を安置する社殿です。

 

 ◇酉の祭

 内御玉殿の前で、神長・守矢氏は自身の首に着けていた鉄鐸(=サナギの鈴)を取り、御杖に付けます。そこに神使(=おこう様)と呼ばれる童子が現れます。おこう様は、神長から御杖を授かり、大祝から藤白波の玉鬘を掛けてもらいます。

 そうして、大祝の代理として諏訪周辺の各地へ巡行に出るのでした。

 

◆十間廊(じっけんろう)

 ここで「御頭祭」が行われています。

 かつての御頭祭では、鹿の頭75個や山海の幸が供えられました。

 現代では、祭の規模を縮小し、鹿頭は剥製を用いています。

 諏訪神社では、鹿が神聖な動物だから「御頭祭」で猪と共に殺して神に捧げました。

 春日大社では、鹿を大切にする代わりに「若宮祭」で兔や雉を殺して神に捧げます。

 現代の御頭祭は「本宮」も関わります。

 まず、本宮で神事を斎行。その後、神輿行列が前宮に向かいます。十間廊に到着した神輿は中に入り、古式に則って神事を進めます。

※神輿が十間廊に入ることができるのは、神輿=大祝の神霊だからです。

 

◆神子屋跡(みこや)

 十間廊の背後に設えられた雅楽演奏のための小屋。オーケストラ・ピットですね。

 御頭祭において、十間廊での饗宴がクライマックスを迎えると、「神子屋」で優雅に奏されていた雅楽が激しく鳴り始めます。それを合図に神に選ばれた童子「おこう様」が馬に乗せられます。松明を灯した隊列はトキの声をあげて走り出し、御手祓道を左回りで三周しました。by案内板ほか

 今、往時の面影はなく、礎石らしき石が残る草地でした。

 

 十間廊&内御玉殿の壇から、さらに石段を上がります。

 次の壇は、御手祓道の”向こう正面”道が参道を横切ります。

 右手に巨大な欅が聳えていて、根元に小さな石祠が見えます。

 

 御室社  みむろしゃ

前宮で最も重要な境内社の1つです。

◆穴巣始

 かつて、この地に竪穴式の土室を作り、穴巣始(あなすはじめ)という神秘的な神事が行われていました。しかし、戦国時代頃に途絶えました。

 この神事は、旧暦12月22日の「御室入り」でスタート。翌年3月中旬に御室が撤去されるまで、土室の中で祭祀が行われました。

 童子が100日間も暗い穴倉で過ごす…。精神に異常をきたし、憑依しやすい状態になったかと思われます。

 

御室社の前を向かって右に降りていくと、「鶏冠社」に着きます。

 

 鶏冠社  けいかんしゃ

 前宮境内で最も重要な秘所であり、聖地でした。

 なぜなら、ここで大祝の就位式が行われたのでした。

 

◆大祝就位式

 かつて、斎行されていた式典の様子を以下にご紹介します。

 厳しい潔斎を終えた大祝候補の少年が鶏冠社に到着。

 式場に生える3本の柊とその樹下に要石(磐座)。

 ①要石の上に葦製のムシロを敷く。

 ②その上に少年を立たせる。

 ③少年にお歯黒などの化粧をする。

 ④神長官が少年に神衣を着せる。

 ⑤神長官は呪印を結び、四方拝

これで即位式は完了。

 柊を伝って要石に降りた諏訪明神の神霊が無事に少年の身体に宿りました。

 少年は、身体に神霊が入っている「シュールな人間」となったのです。

 

 就位式の後、大祝は内御玉殿へ。

 社殿から取り出した神宝である「真澄(ますみ)の鏡」を胸に飾り、「弥栄の鈴」を鳴らして民の前にお出ましになったのでした。

 

 鶏冠社から内御玉殿への道には スノコが並びます。上社本宮の布橋を渡るときと同様、スノコには白い布が敷かれます。

 

 

柏手社 かしわでしゃ

 例によって、巨樹+磐上に石祠。

「木と磐(石)の組み合わせ」は、木花開耶姫命と磐長姫の姉妹神を想起し、象徴的な気がします。

 

 案内板は「前宮の神前に供える膳や饗宴の膳を調理したところと思われる」と記します。要は、神饌所の跡に建てた祠ということでしょうか。

 膳は「かしわで」と読み、その語源は柏の葉を食器にしていた時代があったから。

 当社の社号につながります。

 

 

 

神原から本殿へ

 神原から本殿までは約200m。

 石段から坂道に変わります。

 2つの神域はここで分断されている印象でした。

 

 水眼の清流を引き込んだ参道右手の空間には驚きました。「いかにも」な水車やおシャレなCafeがある親水公園が造成されているではありませんか。

 ここからの坂道は、都会の歩道で見かける化粧石仕立て。なるほど、洗練されています。しかし、明らかに「浮いて」いました。

 

 

【参拝所周辺】

参拝所

 一之鳥居を出発して、緩斜面を350mほど上がった先に、写真の参拝所があります。

 

◆瑞垣御門

 本殿を囲む瑞垣に設置された御門に賽銭箱が置かれています。

御祭神

 建御名方神

 八坂刀賣命

戦後、この祭神構成となりました。

 

「神社明細帳」(明治12年)では

 八坂刀賣命 やさかとめのみこと

のみです。

 上社本宮や下社春宮&秋宮などと比べて地味で質素な参拝所。

 御門と瑞垣が緑に溶け込んでいます。

瑞垣に沿って裏手に回ると、本殿を垣間見ることができます。

 

本殿

 現在の本殿は昭和7年建造。

 前年に伊勢神宮「式年遷宮」があり、その古材を拝領して建てました。

 この本殿に、前宮サイドの強いコダワリを見ることができます。

 社殿デザインは、かつての精進屋のそれを踏襲しています。

 

◆ありし日の精進屋

 ここに大祝候補の少年が籠ります。

 潔斎期間は30日。

 ①外洗浄期

 ②内洗浄期

 ③己身洗浄期

10日づつ3区分し、各期で忌火、衣服、器物、畳を新たに交換しました。※精進屋の写真はウイキから拝借

 

◆再び現在の本殿

 伊勢神宮から古材を拝領したからといって神明造にしない。

 大祝(=上社の象徴)が潔斎した精進屋をリスペクトして、それに似せた社殿を建立。

 斜めからのアングルですが、1枚目より拡大して撮影。

 

◆格子戸

 本殿正面の格子戸は引き戸ではなく、「蔀戸(しとみど)」です。

 これは、寝殿造りに頻出する建築様式で、上下に開閉する扉です。

※ネットに参考図版があったので拝借↓↓↓

 

◆本殿背面

◆本殿に要石?

 現在、鶏冠社にあった要石が行方不明中です。作家の戸矢学氏は著作の中で「本殿の中に安置されているのでは?」と、推理していました。

 

 大祝が潔斎した精進屋に似せた本殿。

 大祝の就位式において重要な役割を果たした要石。

 大祝を要とした、この幸福な組み合わせ。あり得るかもしれません。

 

◆水眼の清流

 水眼は「すいが」と読み、本殿の左サイドを流れます。

 水質は中性に近く、湧出量も水温も不変の名水です。

 

◆八坂刀賣命の御陵

 瑞垣の中、本殿の隣に玉垣があります。

 これは、八坂刀賣命の陵(みささぎ)と言われています。

 陵に寄り添う壁のような大欅。

 

 諏訪神社の祭祀について、何冊かの本を読みました。

 今、祭神について漠然とした思いが浮かんでいます。

 戦後、神社庁に登録された「表向き祭神」ではない、本来?の祭神は…

 ◇上社本宮=建御名方神を祀る社

 ◇下社 2社=八坂刀売命を祀る社

 ◇上社前宮

 →精霊ミシャグジを降ろした聖域

だったのかな、と思っています。

とくに前宮。神事や儀式では、諏訪大明神の神霊を降ろしていたことになっています。しかし、実態は違うようです。守矢神長官が少年たち(大祝やおこう様)に降ろしていたのは精霊ミシャグジ。そのように読みました。したがって、本殿に諏訪明神はおらず、あれは斎屋だった。そんな気がします。

 

 中央に逆らい続け、地元の神や精霊を崇拝した昔の諏訪神社には興味深いものがあります。しかし、明治政府の「宗教改革」により神職の世襲を否定され、大祝はいなくなりました。そして、今の諏訪大社は神社庁の枠組みに順応しようと務めているように見えます。

 

 

【御朱印】

初穂料500円

「4社巡り」完遂の記念品はガマ口でした。

 

◆『鹿食之免』

 殺生や肉食を戒める仏教の影響力が大きい時代にあって、それを犯す。

 そのウシロメタサから「人の手にかかって死に、人に食されてこそ成仏できる」と、都合良い文言で狩猟や肉食を擁護せざるをえなかったのでしょう。

 参拝記念に拝受しました。

 

 

【参拝ルート】

2024年 5月10日

START上諏訪駅・諏訪湖口7:47→アルピコ交通かりんちゃんライナー→8:15上社バス停~70m~四之鳥居~190m~東手水舎・二之鳥居~①諏訪大社 上社本宮(入口御門・布橋から)~800m~②御頭御社宮司総社&神長官守矢史料館~850m~③峯の湛~750m~④荒玉社~100m~ ⑤諏訪大社上社前宮 →TAXI→茅野駅(昼食)~茅野駅西口バス停13:30→アルピコ交通バス岡谷駅行き→13:33葛井神社入口バス停~170m~⑥葛井神社~葛井神社入口バス停14:33→アルピコ交通岡谷駅行→14:44角間橋バス停~250m~⑦八劔神社~角間橋バス停15:34→アルピコ交通岡谷駅行→15:40上諏訪駅・霧ヶ峰口GOAL

 

 

【編集後記】

◆建御名方神の神託

大祝就位式において、神長官は諏訪明神の神託を代弁しました。

「私は非物体であるから、大祝をもって体とする。私を拝みたい者は大祝を拝め」

この言葉があったから

 上社本宮・参拝所は、大祝の居館の方向を見つめたのではないでしょうか。

 

◆御柱

   植物として死んでいる御柱

   背後に生命力が旺盛な大樹

 両者は対照的な姿を見せています。

 

【参考資料】

 ・古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究(古部族研究会 編)

 ・古代諏訪の祭祀と氏族(古部族研究会 編)

 ・諏訪信仰の発生と展開(古部族研究会 編)

 ・アースダイバー 神社編(中沢新一)

 ・諏訪の神(戸矢 学)

 

長文をお読みいただきまして、ありがとうございました。(了)