Cartolare di Uno (unoの日記) T.B. -142ページ目

Cartolare di Uno (unoの日記) T.B.

unoの夢と現実を綴ったblogです

最後にこついいま~すw

・地図で覚えるとあとあとつかえるよw

・漢字が難しいのは出ると思ったほうがいい

・宗教的な戦いはでる!

・絶対とか唯一とかそういう単語が出てきたらくさいとおもえ!

・世界地図や世界の歴史年表は必要

・空白大目の問題集がひとつあったほうがいいかも・・・・・




暗記するのは多いし漢字がむずかしかったりするし、紛らわしい名前がおおい

図や資料と一緒に覚えるのがいいと思う

ゴロは役に立たないきがするから

しっかり努力!

中国の現在の省の場所です。参考にして位置把握してねw


ここからトルコ・イランだよw

トルコ、イスラムは都市の位地と王や戦い、滅ぼした部族の系統をはあくすることwイスラムのシーア派とスンナ派の対立もあり、国ごとにちがうので把握すること

<ティムール王国の盛衰>

14世紀後半にチャガタイ=ハン国が東西に分離し、豪族が分立

トルコ化、イスラム化した西チャガタイ=ハン国で豪族の一人であるティムールサマルカンドを首都とし1370年にティムール帝国(ティムール朝)を建国

東西トルキスタン統一後西進してイル=ハン国の領土を合わせた

その後キプチャク=ハン国やインドに進軍し小アジアにせめいってアンゴラ(アンカラ)の戦い(1402)でオスマン帝国の軍を破り

バヤジット1世を捕虜にし明へ遠征。しかしティムール病死

三代君主シャー=ルフのときにサマルカンド、ヘラートを中心に栄え、トルコ=イスラム文化が栄えた(壮大なモスクなど)

政権がその後分裂し南進してきたトルコ系ウズベク族に滅ぼされた

注意点 どこの国にせめたかを把握すること 戦いはどこと戦い誰を捕虜にしたか 何系のどんな部族に滅ぼされたか把握する

<サファヴィー朝の盛衰>

ティムール滅亡後イランで神秘主義教団に支持されてたイスマイル1世が1501年に開いた

遊牧国家ではあったがシーア派を国教としスンナ派のオスマン=トルコに対抗した

伝統的なシャー(君主)の称号を使用しイラン人の意識を高めようとした

最盛期のアッバース一世は首都をイスファハン(イスファハーン)に移しオスマン=トルコからダブリースとバグダードを取り戻した

そしてポルトガル人をホルムズ島から追い出した

彼の死後衰退していった

注意点 宗教の派閥を覚えよう 首都と最盛期の王を覚える

<オスマン=トルコ帝国の起こり>

イスラム化したトルコ人オスマン1世が建てた

ビザンツ帝国領を奪いバルカン半島に進出しアドリアノープルを首都とした

1396年バヤジット1世ニコポリスの戦いでフランス・ドイツ連合軍を倒した

しかし、アンカラの戦いでティムール帝国に大敗し捕虜になった

そのごたちなおしメフメト2世コンスタンティノープルをおとしイスタンブルと改名、ビザンツ帝国を滅ぼした

セリム1世サファヴィー朝をやぶった後シリアのマムルーク朝を1517におとしイスラム教の聖地メッカ・メディナの両方を保護下においた以後スンナ派を保護した

オスマン=トルコのスルタンはカリフの資格をかねた(スルタン=カリフ制:政教一致の制度)

スレイマン1世のときに全盛期をむかえハンガリーを征服し、1529年にウィーンを包囲しヨーロッパに脅威をあたえた

1538年にはプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア艦隊をやぶり地中海の航海権を手にした

レバントの海戦に敗れるがヨーロッパに脅威をあたえた

スルタンはイスラム法の施行と州・郡・県にわかれる行政機構をととのえた

一方でキリスト教やユダヤ教の共同体(ミッレト)大幅な自治をみとめていた

スルタンの軍はティマール(徴税権)を保持する騎士団とイェニチェリ軍団(キリスト教徒の歩兵集団:常備軍)からなっていた

またフランス人に居住と通商の自由をみとめていた(カピチュレーション)後にオランダ、イギリスも認める

注意点 一番のやっかいな場所なのでそれぞれの王のしたことをしっかり覚えておかなければいけない

     紛らわしいのでしっかり把握すること 敗れる戦いなども出されるから注意 ここは重要!!都市の位置も把握する

<ムガル帝国の盛衰>


ここは王に何世ってつかないよ!!


北インドで興亡を繰り返しているときに南インドはヴジャヤナガル王国が三世紀にわたってヒンドゥー文化をまもった

1526年にティムールの子孫バーブルがデリー=スルタン朝末期のインドに侵入しロディー朝をたおしデリーにイスラム教国のムガル帝国をたてる

三代皇帝の最盛期の王アクバルデカン地方を除く大部分とアフガニスタンの東半分まで勢力をのばす

アグラを首都として中央集権化につとめジズヤ(人頭税)を廃止してムスリムとヒンドゥー教のラージプート族との融和をはかった

また彼は官史に徴税請負をさせなかったため全盛期になった

17世紀半ばアウラングゼーブは外征についやしデカン地方も征服し最大の領土になった

彼は厳格なスンナ派でありジズヤの復活をしたため支持がなくなるだけでなくマラータ族やシク教徒(ナーナクが始祖)の反乱をまねいた

この反乱でマラータ族はデカン高原西部にマラータ王国を建国

また外征による財政の悪化により官史による徴税請負も開始された

アウラングゼーブの死後帝国は衰退しデカン・ペンガルも自立し各地のマラータ諸侯を結集したマラータ同盟もデリーに迫る勢いをしめした

そして衰退していく


注意点 地方の位置に気をつけよう どうして衰退していったか把握する 領土がどのように移り変わっていったか把握しよう


<インド=イスラム文化>

デリー=スルタン朝は神秘主義的なものでありイスラムを強制することもなくヒンドゥー教に通ずるところもありうけいれられた

ナーナクはシク教を唱え、トルコ、インド、アラビアの語彙を取り入れる話し言葉がつかわれた

これが混声言語ウルドゥー語のはじまり

特色あるインド=イスラム文化が成立しシャー=ジャハーンがたてたタージ=マハル(ムガル建築)や

ムガル絵画と呼ばれる細密画もつくられた

インドの伝統的画風も影響をうけラージプート絵画として発達した


注意点 絵画をまちがえないこと






抗祖運動(小作料をめぐる佃戸と地主の抗争:とう(登+おおざとへん)茂七の乱)がなぜおこったか!

明代には佃戸制(小農民などが地主などのとちを耕すことで収穫の半分も納入)がすすみ商人へ銀を入手するための依存が進み地主などは商業に投資して蓄財をはかった。

そして貨幣経済は中小農民を苦しめ没落させ地主などに土地集中した。

地主たちの中には地方権力者(郷紳)となり自らのために農民を圧迫するものも居た

そのためおこってしまった

農民の中には生活が苦しく禁をおかしてまで東南アジアなどに逃れるものも多くのちの南洋華僑のもとになる

またヨーロッパ人との貿易は乾隆帝が1757年に広州だけにした。実施したのちも公行という特許商人の組合が独占していた

注意点 貨幣制度によるのうみんの立場を把握すればよい

陽明学:朱子学を官学としてから永楽帝は四書大全、五経大全など編纂した

     明の王陽明(王守仁)陸九淵の学を発達させ陽明学をひらいた。

     陽明学は理論的な朱子学と違い知行合一(知ることと行うことは表裏いったいである)の実践を重んじた

実学:産業の発達に基づき実践重視の実学が発展した。

   李自珍の「本草綱目」(薬学)、徐光啓の「農政全書」(農学)、宋応星の「天工開物」(産業技術)、湯若望・徐光啓の「崇禎暦 

   書」(暦学)が代表的だ

考証学:儒学から派生した客観的・実証学てきな学問

     創始したのは明末清初のときに黄宗義(旧字)・顧炎武がはじめ、清には戴震・銭大日斤(半角にして)が活躍。

     末には公羊学派がおこった


注意点 学派と人物を間違えないように 漢字が難しいので気をつけること 著者と書物と何学か一緒に覚えること


大編纂事業:永楽帝は「永楽大典」(百科事典)、康熙帝は「康熙字典」(字書)、雍正帝は「古今図書集成」(百科事典)

        乾隆帝は「四書全書」(古今の書物をまとめたもの)がある

庶民文学:{小説:明代の「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」「金瓶梅」「今古奇観」、清代の「紅楼夢」「儒林外史」「聊斎志異」}

       {戯曲:明代の「牡丹亭還魂記」、清代の「長生伝奇」「桃花扇伝奇」}

絵画:南宗画(元末に生まれた文人画系であり明代に全盛し、董其昌によって大成)

    北宗画(宮廷画家の院体画系であり明代の仇英が代表的)

建築:永楽帝が北京に築いた紫禁城

陶磁器:景徳鎮


注意点 本は誰の時代にどういう種類の本が作られたか把握すること、文学は時代と文学をまちがえないように

      絵画は代表人物をまちがえないこと 陶磁器と建築はそのままでよい


宣教師の活動と典礼問題

ヨーロッパ人が大航海時代にインド航路をもとめてポルトガル人が中国にきたことがきっかけ

ポルトガルにマカオ居留権をあたえ西欧と貿易をした

伝来したものは甘藷、ジャガイモ、トウモロコシ、落花生、タバスコなど

イエズス会の宣教師が訪れる。フランシスコ=ザビエル(実質布教はしていない)、マテオ=リッチ(実用的な知識(砲術、天文、暦法、地理、数学)を教え信用された)

また彼は徐光啓の協力を得、エウクレイデスの幾何原本を翻訳東洋最初の世界地図「坤與万国全図」を作成

清代ではアダム=シャール・フェルビーストが暦の改訂をし、中国全図の「皇與全覧図」をブーヴェ、カスティリオーネが円明園の設計をした

しかし、孔子を崇拝したりして見せたりして布教したが

ほかの宗派の宣教師がローマ教皇に訴えたことを発端として典礼問題がおこった

教皇はイエスズ会の布教方法を否定したが康熙帝は反発しイエスズ会以外の布教を禁止し、雍正帝は1724年にキリスト教全面禁止した


注意点 何が伝来したか把握 宣教師の名とそれぞれ何をしたか把握する キリスト教に対する皇帝たちの反応も覚える

<前の記事の書き忘れ>

最盛期の領土のなり方は中国内地、台湾、東北地方を直轄地。チベット、青海、新疆、モンゴルを藩部。タイ、ミャンマー、ヴェトナム、朝鮮、ネパールを服属させた


貨幣経済が発達してきた。その背景には商人の活躍があった

これまでの{宋の時代から「江シ折じゅくすれば天下足る」といわれていたが明末に「湖広熟すれば天下足る」といわれるようになった}

長江下流域の変化は国内での綿、桑、茶などの需要が増えただけでなくポルトガル、スペイン商人が絹、茶、陶磁器 を大量にかっていったためである

穀倉地帯は長江下流の江シ折地方(現在の江蘇、シ折江省)では綿織物業や絹織物業がさかんになる

綿花や桑の栽培が普及し明末には湖広地方(現在の湖北、湖南省)に移る

農村工業が発達し絹・綿織物が広く流通する→貨幣経済が発達するというわけである

山西商人(山西省の商人)や新安商人(安徽省の商人)の活躍でますます発達した

大都市では同業・同郷の商人が社交・相互扶助の目的で会館・公所をもうけ助け合った

しかし、商人が利益を独占し農民の利益はほんのわずかだった


注意点 穀倉地帯の時代とともに移り変わっていくのを覚えよう どうやって貨幣経済が発達したか説明できるようにし 

     よう


税制:中国にヨーロッパの銀が大量に流入→日本からも銀が流入→中国内に銀が増え銀が主要通貨となる

    唐の時代から続いていた両税法にかわり一条鞭法(土地の地税と人頭税を丁税を簡素にして銀で納める)に。

    18世紀の雍正帝からは丁税を地税に換算し銀で納める地丁銀制になる。1711年以降は増えた人口に丁税はか 

    からないことになったため人頭税が事実上消滅した


注意点 銀が増えた経路を覚えよう 税制が一気に変わるため変わる時期を把握しよう


明の崩壊から・・・・

1616年に中国東北部の女真族がヌルハチ(太祖)によって統一され国号を金とし、満州文字を制定

ヌルハチは狩猟・軍事組織を八旗(旗人がもつ土地を旗地という)とし、強力な軍事力で東北地方を支配

次のホンタイジ(太宗)チャハル部を征服し国をとし、朝鮮を服属


注意点 まだ中国の中心には来てないことを確認すべし、皇帝によって国号がちがうので一緒に覚えよう


1644年に三代目の順治帝(世祖)は明の将軍呉三桂の力を狩り李自成をやぶり北京を占拠

清は功績として呉三桂ら三人を雲南、広東、福建の藩主としたが力が強くなったため、

四代康熙帝(聖祖)がのぞこうとし、三藩の乱となり平定した。その後台湾の鄭氏を滅ぼし台湾を領有。

また、黒竜江(アムール川)流域に南下していたロシアを攻め、ネルチンスク条約(1689)を結んで国境を優位にとった

雍正帝(世宗)はロシアとモンゴル北部の国境をキャフタ条約で定めた

乾隆帝(高宗)東トルキスタンのジュンガル部を破り清の領土を最大に広げた

この三代にわたる時代清の最盛期であった


注意点 領土の広がりに注意!!どの皇帝がどこを広げたか詳しく把握すること(重要) 条約や乱の名前も覚えよう

      清の領土をしっかり把握しよう

 全盛期はあとは衰退するだけ・・・

清の支配体制は明の制度を採用していた部分もあった

八旗を補うものとして旧明軍の漢人を緑営という常備軍に。

雍正帝が設定した軍機処は軍事、行政の最高機関となり乾隆帝はホンタイジが創設した理藩院を整備し藩部を監視した

清は漢人官僚を用い満漢偶数官制(満州人と漢人が同数の合議制)を採用

学芸を重視し、科挙を採用その反面、辮髪を漢人に強制したりや文字の獄や禁書で反満反清言論をとりしまった

注意点 皇帝によって置いたものが違うので注意!!それぞれの役職の役割を把握しよう

     どうやって漢人を支配したか把握しよう


きったな!!!ごめんね!