ごえもん4。亡くなる日。にはたくさんのイイね!やコメントをありがとうございました。
 アメーバトピックスにも載せていただいたので、いつも以上の反響をいただきました。
 
ご自身の体験を重ねてくださったり、今いる家族をもっと愛そうと改めて思ったと言ってくださったり。
また、瀕死の家族を一人置いてでかけるなんて、ごえもんが寂しかったろうと思いやってくださる方もいました。
 
だんだんと弱っていくごえもんと過ごしながら、生活していくうえで死に目に会えないことはあるだろうなとは思っていました。そのときはそれが必然と決められたごえもんと私の別れ方なんだろうと思っていました。
今回の場合は、行かなくても済んだものを行ってしまって看取れなかったので、批判的なご意見もいただきました。
ごもっともなご意見だと思っています。
自分でも「なーんで行ったかなぁ」と不思議でならないし、しばらくは後悔していましたし。しかし、それが事実で。
 
ごえもんと私たちのリアルの14年間を、亡くなった日の出来事だけを書いた一つの記事だけで理解は難しい…いや、できないだろうなと感じています。
なので、そう思われるのも無理はないなと納得しております。
 
弱っては復活、を何度か繰り返し、私たちの中にもゆっくりとお別れの覚悟もできていましたので、心が大きく乱れることもなく、ごえもんの死を迎えました。
子どもたちの反応にも薄情な印象があったようです。
偲び方は人それぞれでしょうが、涙を流して悲しむことだけが、偲ぶことではないと思っています。
子どもたちもよくごえもんの思い出話をします。
笑いながら思い出します。暖かく思い出します。
 
 
また、トピックスのタイトルが「亡くなった愛犬の鳴いた意味~~…」のようなタイトルだったので(?)、多くの方がごえもんの最期の言葉を想像してくださいました。
 
一人にしないで、行かないで、ありがとう、じゃあね…
ふふふ。どれなんでしょうね。
ごえもんがおしゃべりできたらよかったなぁ。
(メッセージでアニマルコミュニケーションのことを教えてくださった方もありがとうございます。)
 
今となっては、私の中ではどれでもよいです^^。
亡くなる最期の時は重要視されるんだなぁと皆さんのコメントを見てつくづく思いました。
が、私は生前から『死の瞬間だけがごえもんではなく、生きた14年間全てがごえもん』というふうに考えていて、
それでいい、と自分の中で消化できたので、語弊はあるかもしれませんが、どれでもいいです。
皆さんが「きっと寂しかったはずだよ」と思ったなら、それはそのままで。
 
どれが正解と分かっても、もうごえもんはいないので。
この世のすべての感情から解放されて飛び回っていると思います^^
死は残された人がどう受け止めるかで、意外に魂になっちゃった方はどうでもよかったりするんじゃないのかなぁ、と思ったりしもしています。
また、自分のいいように解釈してるかな。
 
私たちにはごえもんと生きた14年間があり、(ま、小さな後悔や失敗は多々ありますが^^;)愛しきった!愛し合った!と胸を張って言えます。
 
読んだ方の感じ方は自由だと思います。
私はこう思うけど、あなたはそう思ったのですね。
そのままで、自由でいましょう。
 
 
 
 
 
 
 
最期に、今、ワンコやニャンコ、ウサギや亀さん、その他愛しい家族と暮らしていらっしゃる皆さんが、いつかはくる『別れ』がどうぞ本人とご家族が望む形で迎えることができますよう、心より祈っております。
 
 
 
 
 
 
 
 
思ったことを書いたらかなりの長文になってしまいました…。
普段のおバカな育児絵日記を楽しみに読みに来てくださっている方には、ごえもんの話が続いてしまって申し訳なく思っています。
明日からは通常の絵日記に戻りたいと思います。
 
いつも読んでくださりありがとうございます。
 
 
 
 

 

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