認知の仕方で人生が変わる | 続・教育のとびら

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教育・成長・人の発達・組織論などのブログです
(旧 gooブログ『教育のとびら』を継承)

主宰 福島 毅(どんぐり)

こんにちは。どんぐりです。

昨夜は、フォレスト大楽のフォレストシップゼミというコミュニティで、池上正さんらをゲストスピーカーにしたセミナーが行われました。そこで認知についての話が出たので、自分なりに再考して、気づいてことをまとめてみます。

 

現代社会は、スピードや結果を要求されるので、人の反応が無意識に『早く反応を返さねば』となっているのではないかということ。その結果、認知=(事実の目撃+受け止め+自分の価値観による解釈・反応)が一体化してきているのではないか?

この一体化の問題点は、特に親vs子・上司vs部下・スポーツにおいての指導者vs生徒や学生のような上下関係において、現状分析を冷静にするプロセスを省略して怒鳴るといった原因になっていると思われます。ある指導者から見ると劣ったプレーでもプレーヤー自身は何か意図があってチャレンジしたけどたまたまうまくいかなかったということも多分にあるにもかかわらず、激しく叱責されれば、再びチャレンジしようという意欲すらなくなる可能性もあるわけです。

 

私たちは、経験を蓄積するにつれ、「これが正当である」という価値観を構築してしまいます。そしてそのフィルターで相手や社会を観てしまう無意識の習慣があると思います。それに自覚があれば、まだ修正もできますが、もう無意識にしょっちゅうイライラしたり怒ったりする人の心理構造は、これ。「事実認証と感情表現が同時」ということ。だからそんな習慣が自分にはあって、何か腑に落ちていない、修正したい人は以下の方法をおすすめします。

 

事象を目撃したときに、以下のステップで冷静に分析し言語化すること
①まず何が起きたか?ということ (こういうことが起きたという事実のみで解釈は入れない)
②それに対し、自分はどう感じ、どう思ったか (あくまで自分主観でそう思っているという自覚も)

③なぜそう思ったのかという根拠 (そしてその根拠に恒久的な絶対はないはず)

 

もちろん、生きていく中で何が正しいとか何が相応しいという根拠を構築するということも必要で、それがなければフワフワした芯の無い生き方になってしまいます。しかし、その根拠自体もまた相対的な自己判断によるもので将来的には変わるかもしれないという意識ですごせば、今までの自分よりも寛容になれるのだと思います。