著書 「第三の波」で情報社会の到来を見事に予言したアルビン・トフラー氏の2006年の著書「富の未来」を読みました。
上巻234頁に以下のような記述があります。「何かが真実かどうかを判断する際には、少なくても6つの競合する基準が使われている。」
この記述について少しコメントしたいと思います。
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1.常識
一般に「真実」とされているもののかなりの部分はそれが常識だからという理由で正しいとされている。これは昔からの知恵である、皆が正しいと考えている、だから正しいはずだとされている。
・・・群衆に加わっていれば考える必要がない。それだけでなく常識に従っていれば誰からも非難されることはない。間違っていたことが分かっていても、愚かだと思われる心配はない。全員が同じことを信じていたのだし、賢明な人たちも信じていたのだから。
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コメント:価値観が多様化し、それを発信するツールを個々人が持つのが現代社会なので、何が常識かという価値観が揺らいでいます。何が善で何か悪か。何を優先することが常識なのかといったことに意見が分かれてしまいます。そこが状況をさらに複雑にしていますね。
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2.一貫性
この基準は、ある点が真実とみられる事実の間で一貫性がとれていれば、その点も真実であるはずだという想定に基づいている。私立探偵、法律家、裁判所は証言が真実かどうかを判断するとき、この基準がまず第一に使うものとして重視している。
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コメント:一貫して間違っているという場合があり、この場合には大きな過ちを犯していくことになるでしょう。従って一貫性とともに検証されなくてはいけないのが、一貫性そのものを俯瞰する立場の見方、メタ認知でしょう。
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3.権威
権威には宗教的な権威もあれば、世俗的な権威もある。・・・聖書かコーランに書いてあることは、間違いなく真実だと考える人も多い。・・・・また、ニューヨーク・タイムズ紙、ル・モンド紙、CBSニュースなど、権威ある報道機関が伝えるニュースは真実に違いないと考える人もいる。・・・賢明な意志決定のためには大量の知識が必要なことから、優秀な人は自分が何を知らないかを知っている。このため権威が分担されていたり、転嫁されたりすることが少なくない。・・・しかし、権威に頼るとき、その人の実際の能力を明確な方法で検証することはめったにない。肩書や学歴、ある種の認証機関が示す権威のイメージに依存している。
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コメント:その道の権威が言うことだから絶対正しい・・・とは限らないという認識あるいは、権威を持つ者が自ら「ここまでがわかっている限界である」と正直に打ち明けることにより、情報を判断する人もさらなる真の情報を求めていけるような木がします。
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4.啓示
なかには、神秘的な啓示と考えるものを「真実」の基準とする人もいる。啓示とは疑う余地のないものだ。根拠も理由もない。そのまま受け入れるしかない。わたしがいうのだから間違いないというのが啓示だ。
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コメント:宗教的な啓示を真実として無批判に受け入れる危険性はオウム事件をみても明らかですね。啓示自体は、批判されたとしても、その批判に対し、合理的・客観的・論理的な反駁がなされ、さらに議論するといったプロセスはないわけです。ただ、世の中の仕組みが複雑になり、何を頼りにどう生きていくかに不安になった人々からは宗教や啓示に頼りたい、生きる哲学をその宗教的考えにゆだねて楽になってしまいたいという気持ちが生じるのがわからないでもないですが・・
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5.時の試練
この場合、真実かどうかの基準になるのは年数である。それは時の試練に耐えてきただろうか。試され正しさが立証されてきただろうか。あるいは新しく、したがって疑問があるものなのだろうか。この場合の権威は神ではないし、書籍や人物でもない。「過去」と呼ばれる長い長い時間である。チキンスープは風邪に確かにきくかもしれない。だが、おばあさんのおばあさんのおばあさんからそう伝えられてきたから確かにそうだといえるのだろうか。
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コメント:時の試練を経てきて今日あるものに、ことわざがあります。また生活に根ざしている昔の人の習慣というものが、科学に照らしてみると合理的ということはよくあることです。一方で、信じられてきたことが科学によって解明され、まったくのデタラメであったということもよく起こります。迷信として信じられていたことが真実でないということもよくあるもので、無防備に信じてはいけないということが言えるのではないでしょうか。
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6.自然科学
自然科学は他の5つの基準と違っている。真実の6つの基準の中で唯一、厳密な検証に基づいている。・・・科学とは、事実を集めたものではない。科学とは、考え方を検証するプロセスである。科学の世界では考え方は少なくとも原則的には検証可能でなければならない。検証にあたっては、観察と実験を行う。結果は再現性がなければならない。これらの基準を満たさない知識は、科学的ではない。・・・それだけではない。科学の世界では、とりわけ説得力のある発見でも不完全な仮説でしかなく、その後に科学的に検証された発見があらわれれば、かならず見直され、改定され、否定されていく。このような性格から、科学は6つの基準のうち、唯一、宗教や政治、民族や人種などに基づく狂信的な熱狂に反対する性格を持っている。・・・この考え方、つまり科学的な知識は改善でき否定できるものでなければならず、改善されるか否定されていくべきものだという考え方のために、科学は一頭地を抜くものになっている。この考え方のために、常識、一貫性、権威、啓示、時の試練などの他の基準とは違って、科学だけは自ら誤りを修正できる。
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コメント:トフラー氏はとりわけ、科学知識が将来の富を運ぶ重要なタームであると指摘しています。ただ科学の運用についてとなると、科学自体がどこまで決定権を持つのか。核や遺伝子組み換えなどの科学技術の開発は科学的でも結局社会に組み込み運用する段階での議論では、人間の考え方・倫理観に決定権が移っていきます。そこはどうするのか。富を生み出す強力なツールだからここそ、使い方を誤れば世界規模の破壊に結びつくことを肝に銘ずる必要があるでしょう。