最近ひっかかって来る感覚について。
私たちが普段「現実」と呼ぶ物質世界には、一見、制限がある様に見える。
形あるもの全て壊れる。諸行無常。終わりのない旅はない。のは、3次元の話。
しかし私たち人間の意識は、決して3次元に留まらない。過去のある時点で芽生えた意志によって現在の状況が「叶え」られたり、予知夢やデジャヴを見る人も多く、意識の変容によって過去の「事実」の認識の変化が起こる事もある。
絶対的な3次元や肉体に限定されることのない私たちの意識は、多次元的に存在する。
時で言えば、始まりも終わりもない継続。
場で言えば、全てが繋がり合っている。
仏教で言う「空」の世界であり、ノンデュアリティー、ワンネスと表現されるような次元があるということ。
「何事にも、始まりも終わりもないんだ。。。」って思ったら、
その可能性は、私の心が穏やかさを見出すための希望の様な気がした。私たちは3次元的な事象の中で、それらの繋がりの全貌を把握する能力がない。だからこそ、1つ終わって1つ壊れて、また1つ叶わぬ夢に一喜一憂、七転八倒する。
でも、私たちの意識に終わりがないのだとしたら。
だからこそ何度でも立ち上がり、新たな希望を見つけ、信じる道を行き、他の意識との出会いを果たし、望む世界を共同で創り出して行く。
そして終わった様に見える事にも、人知れず続く出会いと物語があると信じることが出来る。
この悠久の流れは、3次元的な視野で測ることも留めることも出来ない。時間は流れ行き、人が歩みを止めない様に、必ず巡り巡って繋がり合っている。
あの時の失言。失敗。罪。挫折。
その出来事の良し悪しを決め付けていた、小さな私の自我などお構いなしで、その未来は留まることのない更なる可能性へと進んで行く。
留まらなくても、良いのだ。
ロマンチックなドラマに浸っていても悪くはないけど。
失敗した私。失った物。あなた。私。
大空に手放して良いのだ。
大いなる幸せを願って。
まるで1つ1つの物事に白黒を付けて、その勝手な足枷にずっと囚われる事が、「責任」を取ることなんだと勘違いしていたんだよね。
世界を全部知っているかの様に。
あなたとの出会いを「失敗」に分類して
その檻の中から出してあげないことが。
でも唯一閉じ込めることが出来るのは、自分自身の意識だけ。
(この広大な世界のことなど分かっちゃいないし、だから1つだって責任など取れやしない。)
全ては平等に動き出していて、重なり合って進んで行き、誰もがその先の場所へと旅する自由が与えられている。自分を閉じ込めて来た檻を、1つ1つ開ける事が出来たなら。
世界がどんなに便利になっても
自分を縛る呪縛を選び続けていたら
命の旅は絶たれてしまうから。
全ての出来事は起こるべくして起こり、
全ての出会いは出会うべくして出会い、
その結末が、この目にどう見えようと、
本当は
永遠に
終わりなんてないことを、
ただ祝福して、手放して、羽ばたけますように。
この世界を定義するかの様に
自分の行動の結果を
全部今生で片付けられるワケがない。
この3次元の身体では無理。
因果の法則、自分の行動のカルマからは
エゴの観点からは勝手に卒業も絶縁も
出来ないようになっていて。
でも、
何事にも終わりがないと知って
自分の命を解き放つ事が出来たら、
ようやく息が出来そうな気がして
やっと歩き出せそうな気がした。