コミュニケーションを円滑にする技法の1つに「アサーション」(assertion)がある。最初に知ったのは教育の現場だった。その中で私が大切だと思ったのは、相手のことを「憶測しない」ということ。
日本も以前までは緊密な集団主体の社会だったけど、今は個人が尊重されて、趣味趣向も多様化して行く中で、昔のように「以心伝心」「背中で語る」「空気読む」のって無理がある。それでもまだ家庭などでは、伝統的な意思伝達の方法しか実践してなくて、この「憶測しない」に衝撃を受けた。
相手のことは、分からなくて当たり前。
そんな前提で関わって行くと、親や姉妹、親友との関係など特に「親しい関係」においては、序所に息苦しさがなくなって行った。密な関係ほど、日本では「超能力」が求められてる。表情や態度で分かるはずだとか、言わなくても察するべきだとか。。。でもそれって、どうだろう?
分かってもらって「当たり前」と思った末に、言葉にならない、合意されない思いが絡み合い、もつれ合い。「愛情」と思い込んで押し付けてきたものが、凶器に感じられることだってある。DVや虐待などの極端な例だけではなくて、多かれ少なかれ、言葉にならない「不快な」依存関係が、自然と出来上がってしまう。
不快な関係は、「家族だから仕方のない」ことではない。言葉の使い方ひとつで、長年絡まり合った事情も、積年のもつれた感情も、一本一本ほどいて行くことが可能だ。私がそんな壮大な(笑)プロジェクトに手を付けたのも、「アサーション」を知ってから。
それまでは「共依存」の強かった親子関係が、見る見る変わって行った。両親は相変わらず自分の価値観や期待を言ってくるけれど、私はそれを「一主張」と捉えられるようになった。「主語」や「主体」が明確になり、自分軸で考えるようになった。「~される」という受身の被害者意識が薄れて行って、身が軽くなった様で、楽しみが増えて行った。
それで鬱の傾向も、すっかり治ってしまった。
4年半もせっせと隔週で病院に通ったけど、お薬が苦手で真面目に飲めなかったけれど、結果的には病院も薬もお金も何も要らない、お得な結果になっていました。アサーションの他にも、私は心理療法と自然治癒法オタクなので、「認知行動療法」や「アファメーション」や「瞑想」や「ヨガ」等々、割と怪しくない(笑)方法をどんどん試しましたが。
。。。というのを、今もう一度思い出してみたい。インドに住むことで環境がガラリと変わり、夫の家族とのお付き合いが始まって、こいういう事↑を今、忘れがちになっているから。これからも既存の価値観や主体性が、否応なく揺さぶられて行くのだろう。
ここ北インドでも、伝統的で集団主義的なコミュニケーションが色濃いように感じる。「ラキ」という習慣があり、女性が従兄弟や友人の腕に紐を結ぶ行事があるけれど、その相手とは一生の義兄弟として(実の兄弟のように)お付き合いして行くとか。
親戚の付き合いも密度が濃い。日本では「面倒な」と言われそうな位、行事も多いしプライバシーも少なめ(笑)。そんな側面をかい間見て、最初は右往左往するばかりだったけど、そろそろ腹を据えて本気のお付き合いをしなくては。でも、ただ「本音」を出しても誤解されてしまう。ただ「従う」だけならストレスになる。
「郷に入っては郷に従え」が、一体どこからどこまでなのか?見極めないと身が持ちません。正直、自分のアイデンティティが揺らぎそうで怖いのです。だから先日も友人のS君に「もっと尊重してほしい」と強く言ってしまったけれど、S君側からすれば「尊重している」のに、何で?、となってる。個人的・文化的な前提が、全く違う故のすれ違い。お互いに意味不明??な衝突。
シンプル&神さま大好き&面倒な思考をしない夫は、
「君は君でいれば、いいんじゃない?」
と一言。。。(深いのか、どっちなのか?笑)それでいつも何となく納得して終了。でも結局夫には私の頭の中は分からないと思っている。夫婦と言っても「分かって当然」だったら息苦しいし。それでも、こんな私のまま包まれているという、不思議な安心感があるのです。
私は私でいればいい。うん、正論でしょう。
「恋愛結婚」で「外国人」が来た!と言うことで親戚中が蜂の巣をつついた様な騒ぎになって、夫はリンチに合って傷だらけになっても、借りたアパートの大家さんに「出て行け」と言われても、「どうせ日本に逃げ帰るだろう」と言われても、病院代が外国人料金で請求されて貯金が飛んで行っても、親友に絶交宣言されても、
(あ↑全部された、られたの受身ですね)
全く響かない彼は、「主体性」の化身???なのではないかと思う。モンスターです。笑
私はまだまだ、修行の身。。。笑