宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ) -47ページ目

宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ)

70年代や、あの時代に輝いていたアレやコレや。
クリエイティブディレクターが語る、「思い出のエッセイ」です。

$昭和を話そう、BOSSのブログ。-恋の季節

それは、突然の大ブレークだった。曲も、そしてピンキーも。写真のレコジャケは1968年のヒット曲、「恋の季節」なのだ。♪忘れられないの、あの人が好きよ 青いシャツ着てさ、海を見てたわ♪という岩谷時子の歌詞もユニークだった。忘れられないの・・というセリフで始まる詞が新しかったのと、青いシャツ着て海を見ていた人が忘れられないという情景もなんだか面白い。そんな詞をボサノバ調のリズムに乗せて、しかも黒ずくめの格好で歌うのだから、印象に残らないはずはない。ピンキーとキラーズはそれから人気グループとして約4年間活躍した。最期は憶えていないけれど、初めて観たのはフジテレビ系の「お昼のゴールデンショー」だったと記憶している。司会は前田武彦(マエタケ)で、当時アイドル的な存在だったコント55号がレギュラーを務めていた、人気番組。たぶん、小学校の給食時間(TVが観られた)に観たのだろう。ここに登場したからには、見逃すはずもない。クラスの男子全員が野球帽を目深にかぶり、傘をステッキ代わりにピンキーを真似た。マエタケとコント55号の笑いと、ピンキー。それは、現在のバラエティ番組の源流かもしれない。今、その時間帯で「笑っていいとも」が放送されている。TVはあれから、まるで変わっていない。

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$昭和を話そう、BOSSのブログ。-山口百恵

花の中3トリオの一人だった百恵ちゃんが、いつの頃か、すっかり山口百恵になっていた。私の中でそれは1976年。14曲目の「パールカラーにゆれて」を歌う視線だった。それまで同年代としてしか見ていなかった歌手が、見たこともない色の光線を放つ異星人の様に思えたからだ。♪パールカラーの街あかり この胸にうけとめて 甘い風に誘われて 泣きながら歩きましょう・・♪こんな大人っぽいセリフをさらりと言える同級生はいない。そんな歌が似合う10代もいない。そう、大人っぽかったのだ。当時の私には、それが少し怖かったけれど、私の周囲の女性たちには憧憬のようだった。女性の方が、男よりもずっと大人なんだと知ったのも丁度その頃だったような気がする。どんどん成長していく友達や成熟していく女性が怖かったのかもしれない。自分は、まだ少年のままでいたかったのかもしれない。無邪気さが売りのアイドルとは全く別の視線や光を、それからの山口百恵はずっと放ち続けた。そして、菩薩とまであがめられたけれど、私の中ではあの年で止まっている。♪街は恋する者たちの港 夜風は潮騒のしじま・・ 愛は帆の切れた舟♪ と歌っていた、大人になりかけの時。夢の終わりと、そして始まり。

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$昭和を話そう、BOSSのブログ。-ピンク・レディー

もはや、何の説明も要らないだろう。TV「スター誕生」から生まれた二人は、ひとつの時代を鮮やかに演じ、そして輝き放った。デビューは1976年だけれど、写真のファーストアルバム「ペッパー警部」が出たのは、翌年だった。私の勝手な思い込みで言えば、ピンク・レディーがいちばん輝いたのは、その1977年だと思う。今から35年前の夏。個人的な想い出を語れば、その夏北海道にツーリングに出かけたのはいいけれど、運悪く有珠山が噴火。降る火山灰で途方に暮れていた時、カーラジオから流れてきたのが、ピンク・レディーの「渚のシンドバッド」だった。♪セクシー、あなたはセクシー、私はイチコロでダウンよ もうあなたにあなたに溺れる♪という過激な歌詞も彼女たちが口ずさむと妙にスンナリと胸に飛び込んできて、前向きになれたのを憶えている。まだウォークマンが世に出る前、海辺や繁華街から聴こえるラジオやカセットの音楽が、人気サウンドのバロメーターだった頃。日本国中のビーチは、「渚のシンドバッド」であふれた。同じ夏、キャンディーズは「暑中お見舞い申し上げます」を歌い、桜田淳子は「気まぐれヴィーナス」で応戦。むせかえるような夏の暑さが、青春の熱さと重なって、私の心にもかげろうが立ち登っていた。

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