宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ) -30ページ目

宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ)

70年代や、あの時代に輝いていたアレやコレや。
クリエイティブディレクターが語る、「思い出のエッセイ」です。

$昭和を話そう、BOSSのブログ。-あの素晴しい愛をもう一度

加藤和彦と北山修のデュオで、写真のレコジャケ「あの素晴しい愛をもう一度」がヒットしたのは、1971年。大阪万博が開催された翌年だった。関西が盛り上がっていたせいなのか、この時代の関西フォークはなぜか熱かった。加藤和彦はこの曲の後、伝説のバンド「サディスティック・ミカ・バンド」を結成。日本のロックバンドの草分けとして、その後も音楽界に影響を与え続けることになる。対する北山修も、71年には「戦争を知らない子供たち」や「花嫁」を作詞しビッグネームに。堺正章の「さらば恋人」という名曲も、実は北山修がこの年に創った作品である。精神科医にならずに、そのまま作詞家を続けていたら、阿久悠にも勝る才能で、きっと名曲を世に送り出していただろう。私は、この二人が最初に組んだフォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」が好きで、子供ながらいつも口づさんでいた。思えば、当時のガキはホントにませていたのだ。「あの素晴しい愛をもう一度」にしたって別れの詞である。♪心と心が今はもう通わない・・♪と言い切った歌詞がクールで、当時としては潔かった。二人の才能は時代の風を受けて上昇していったが、その頃生まれた関西フォークは、「あのねのね」の出現あたりで、なぜかお笑いの彼方へ消えていったのだ。

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$昭和を話そう、BOSSのブログ。-テンプターズ

いよいよ12月3日、日本武道館でザ・タイガース44ぶりの復活コンサートが始まる。東京だけでなく、大阪や札幌でも開催されると聞くと団塊の世代あたりはゾクゾクするに違いない。近頃の音楽はよくわからない・・などとお嘆きの貴兄にはこうした往年のサウンドの復活こそ、朗報なのである。団塊世代ではないけれど、かく言う私もその一人。GS(グループサウンズの略)で言えば、ザ・テンプターズのファンだった。中でもデビューから3曲目、1968年にヒットした「エメラルドの伝説」は忘れられない。写真のポスターはそのレコードの中に入っていた1枚で、ボーカルのショーケンが当時まだ中性的だったことがよくわかる。5曲目の「純愛」も好きだった。振り返ると、どちらの曲も作詞はなかにし礼で、埼玉のローリングストーンズと呼ばれた彼らの自作ではなかったようだ。つまり、ロックというより、私はやっぱり歌謡曲のファンだったんだと、改めて思うのである。しかし、不思議だ。こんなにも幼いイメージのショーケンが、わずか7年後には実に男っぽく、ドラマ「傷だらけの天使」の主役に躍り出る。この落差、この裏切りこそ、たぶんショーケンの魅力なのだろう。まだまだ裏切って欲しい。新しいショーケン、いや萩原健一に逢いたいと思うのは私だけだろうか。

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$昭和を話そう、BOSSのブログ。-庄野真代

化粧品メーカーの春のキャンペーンは華やかだ。中でも、特にCMが活気づいていた頃の、カネボウVS資生堂のCMソング戦争は華やかで、激しかった。1980年、カネボウはヒット曲を連発中の渡辺真知子を起用。「唇よ、熱く君を語れ」をぶつけて攻撃をしかけると、受けた資生堂は女性の支持が多かった竹内まりやで応戦。「不思議なピーチパイ」も、瞬く間にヒットした。けれど、当時私が気になったのは、カネボウでも資生堂でもなく、なぜかポーラのキャンペーンだった。というのも、前年(79年)の春、この激戦に挑んだポーラは桑江知子という新人歌手を起用し、キャンペーンソング(私のハートはストップモーション)で勝利していたからだ。次はどんな作戦で来るか・・と興味津々のところに写真のレコジャケ、庄野真代の「Hey Lady 優しくなれるかい」を聴いた。インパクトは小さかったけれど、作詞・作曲も本人だと知って、感心したのを憶えている。♪めぐる季節を追いかけてる そんな時代は終わったの カタログ捨てて行く・・♪ 歌詞のひとつひとつに、80年代の空気と女の時代の始まりを、思い出す。そう言えば、庄野真代の代表曲は「飛んでイスタンブール」。翔んでる時代の、翔んでる女のどこか象徴だったような気がする。

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