宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ) -15ページ目

宮脇 流の「昭和を話そう」 ( BOSSのブログ)

70年代や、あの時代に輝いていたアレやコレや。
クリエイティブディレクターが語る、「思い出のエッセイ」です。

サクセス

もう40年前になる。「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」という曲を聴いたのは。音楽的にどうとか、これがロックなのか、とかの論争はさておいて、当時 私はその歌詞にたまげた。なんじゃこりゃ、セリフ回しやんか! というのが素直な感想だった。その翌年、山口百恵の「横須賀ストーリー」を聴き、同じ作詞家だと知った。その名は阿木燿子。しかしまだ、その時点でも彼女の才能に気づくことはなかった。気づいたのは、1977年の春のこと。写真のレコジャケ「サクセス」は、資生堂の春のキャンペーンソングだったけれど、実はそのB面「愛しのティナ」に、惚れてしまったのだ。♪燃える太陽がおまえをブロンズに変えるのか 日に灼けた肌に刻み込まれた季節が眩しい 愛しのティナ、繰り返す夏ごとのヴィーナス♪なんと情熱的な、なんと男性的な。それからは、阿木燿子の詞を片っ端から聴くようになった。77年 郷ひろみの「お化けのロック」、78年キャンディーズの「微笑みがえし」、山口百恵の「プレイバックPart2」、79年ジュディオングの「魅せられて」・・。もう全ての歌詞に魅せられた。作詞を文化に昇華させたと言うとオーバーかもしれないけれど、ヘタな小説よりも、私には物語を読むことができたのだから。ちなみに、B面だと思い込んでいた「愛しのティナ」は、77年の資生堂 秋のキャンペーンソングでもあった。春と秋のキャンペーンソングがカップリングされた1枚。77年という年は、阿木燿子にとっても、「セクセス」だったに違いない。

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若き獅子たち

日本の芸能界で「アイドル」と呼ばれた男性は、たぶん新御三家の3人が最初だろう。それまでのスターという呼称よりももっと身近なイメージなので、アイドル。写真のレコジャケは、その代表アイドル 西城秀樹18枚目のシングル「若き獅子たち」である。1976年の秋、この曲を初めて聴いた時、すごく驚いたことを憶えている。それまで、どちらかと言えば派手なアクションで絶叫していた彼が、切ないバラードを歌い上げるなんて想像もしなかったからだ。同じ年の12月に出した次の曲「ラストシーン」もまたバラードだった。日本中が「およげ!たいやきくん」で沸きかえっていた今から39年前、秀樹は21歳。阿久悠の歌詞にリズムが絶妙にマッチし、21歳という年齢を超えて、そのバラードは私に大人の色気を感じさせた。それから幾星霜、そんな昭和のアイドルも、今年還暦を迎えた。若さと笑顔のアイドルもいいけれど、年齢を重ねた渋いアイドルもまた、いい。先日、「還暦」のステージで歌う西城秀樹を観て、そう思った。苦しいリハビリを続けた成果ではあろうけれど、声が届く。絶叫しなくても、その歌声がこちらの心に響いてくるのは、若い頃からバラードを歌ってきたからに違いない。苦難を乗り越えた大人のアイドルの姿に、 今こそ私は 「若き獅子たち」を見たような気がした。

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イルカ

だんだん日暮れが早くなる。するとなんだか、郷愁を誘うような、こんな曲が聴きたくなる。写真のレコジャケは、1979年にイルカが歌った「海岸通」。実は春にリリースされた曲で、少女が大人に変わる季節の歌だったのだろう。歌詞が切ない。♪あなたが船を選んだのは 私への思いやりだったのでしょうか 別れのテープは切れるものだとなぜ 気づかなかったのでしょうか・・・♪ いつも思うことだけれど、誰にも経験があるようで、こういう歌詞は永遠だ。出会いは別れの始まり。私は、この曲がヒットした79年に社会に出た。それまで、好きなことだけに熱中していた子供のような青年が、なんとなく就職をして。そうなると学生時代の交流は薄くなり、次第に消えていった。「海岸通」を初めて聴いたのは、もらった給料で買った当時新発売のウォークマン。その曲をテープに録音して送ってくれたのは、学生時代いちばん仲のよかった彼女だった。今となっては、何もわからないし、何の意味もなかったのかもしれない。ただ、人はこういう曲を聴くたび、自分のことのように思ってしまう。35年ぶりの同窓会で、幸せそうな彼女に再会したけれど、そんな話ができるはずもない。あの時のカセットテープはもうないし、ウォークマンだってどこかに消えた。なのに、イルカのハスキーな歌声だけが、心のどっかに今もジーンと響いてくる。

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