荒木・井端二人でゲッツー
チリトリとホウキだって、なかなかいいコンビなんだ。
チリトリを荒木選手だとしたならば、ホウキは井端選手だし、チリトリを井端選手にしたならば、ホウキは荒木選手なんだ。要するに、どっちでもいいんだ、いいコンビだってことがわかれば。
じゃあ、今日は、チリトリを荒木選手・ホウキを井端選手ってことにしてみよう。
ホウキがいろんな場所に散らかってるゴミをきっちり受け集める、チリトリは絶妙なタイミングでしっかり受け止め、確実にゴミ箱へ。これで、ゴミ、ゲッチュー。ホウキだけでも駄目だし、チリトリだけでも駄目だ。
同じように、
井端選手がいろんな場所に打たれる打球をきっちりキャッチ、セカンドの荒木選手に送球!荒木選手は、絶妙なタイミングで送球をしっかりキャッチしベースに入り、流れるように一塁へ。これで、ゲッツー。荒木選手だけでも駄目だし、井端選手だけでも駄目だ。
ゲッチューするときも、ゲッツーを観るときも、いいコンビには注目だ。
才能・サウンド・タイヤを積んだような で ある音楽を批評する
彼らの音楽をただ単に才能とよぶのは、いささか軽率かもしれない。サウンドは、タイヤを積んだような多重の重厚感を与えるからだ。
しかし、そのサウンドは、類稀なる才能の上に成り立っているとしか言えない。例えて言うならば、多くのタイヤを積んだような上に立つとでも言えるだろう。その才能は稀有であり、そのサウンドも又、稀有である。
今の音楽シーンをリードしている者は、わずかなタイヤを積んだような頂点に立っているにすぎず、サウンドは極めて薄弱で、音楽の才能を持つとは言いがたい。
しかし、世間一般にはそういったサウンドが評判をはくし受け入れられている事実に、彼らの才能は、苦悩しているし、今までタイヤを積んだように積み上げてきたプ
ライドをいとも簡単に揺るがしてしまう恐れもあった。
だが、真の実力によって築き上げられたタイヤを積んだような唯一無二の才能・唯一無二のサウンド、彼らの音楽には、いっぺんの迷いもない。
しれーっとペア
友人と遊んでいると、その友人のカレシ・カノジョがしれーっと遊びに参加することになるってことを経験したことあるだろう。
そういうとき、
その友人のカレシ・カノジョがワタシたちの遊びに「参加している」って考えるのが普通なんだけど、それはあくまで初めのうちだけ。時間の経過とともにいつの間にか、「ワタシが友人とカレシ・カノジョとのデートにおじゃまさせていただいている」って感覚におちいってくる。
そうなってくると、
心臓バクバク 両足ガクガク 冷汗タラタラ
そして、「ワタシが二人のデートの邪魔をしているんだ」って考え出すともう大変。
その気まずさを打破するために、そこら辺に漂っている見知らぬ人とでも何としてもペアになって、今回ははじめから4人で遊んでたんだよね。って雰囲気を醸し出しながら、しれーっと解散まで持ち込むしかない。
ニッキージョーク猫パンチ
日記
絵日記
交換日記
ブログ
変わることなさそうな「日記」でも時代とともに変わっていくものだ。
そのなかでも、とても個人的で秘密のミツにあふれたものであったはずの日記を、他人に見せはじめたことは、大いなる変化だ。
しか~し、
平安時代を過ごしていた貴族が密かに書き綴った日記を読むことが義務教育になっている現代、 読まれることを前提に意図的に晒されている日記を読むこなどに、それほど違和感は無いのかもしれない。
むしろ意図的なぶんだけおもしろさに欠けるので残念だ。
そう考えると、
前々から長年にわたって思春期の若者が読む教科書というものに日記を公開し続けてきた菅原孝標女には感謝しないといけない。
彼女は、日記の公開を容認していたどころか、他人にも求めていたぐらいで。
彼女の日記を「更級(晒しな)日記」という








