Photolanguage -22ページ目

すごいことを言っていそうで言っていない。




「この夕焼けが、オレンジではなく紫だったならば、世界は変わっていただろう」

荒木・井端二人でゲッツー



チリトリとホウキだって、なかなかいいコンビなんだ。
チリトリを荒木選手だとしたならば、ホウキは井端選手だし、チリトリを井端選手にしたならば、ホウキは荒木選手なんだ。要するに、どっちでもいいんだ、いいコンビだってことがわかれば。

じゃあ、今日は、チリトリを荒木選手・ホウキを井端選手ってことにしてみよう。

ホウキがいろんな場所に散らかってるゴミをきっちり受け集める、チリトリは絶妙なタイミングでしっかり受け止め、確実にゴミ箱へ。これで、ゴミ、ゲッチュー。ホウキだけでも駄目だし、チリトリだけでも駄目だ。

同じように、

井端選手がいろんな場所に打たれる打球をきっちりキャッチ、セカンドの荒木選手に送球!荒木選手は、絶妙なタイミングで送球をしっかりキャッチしベースに入り、流れるように一塁へ。これで、ゲッツー。荒木選手だけでも駄目だし、井端選手だけでも駄目だ。


ゲッチューするときも、ゲッツーを観るときも、いいコンビには注目だ。

才能・サウンド・タイヤを積んだような で ある音楽を批評する



彼らの音楽をただ単に才能とよぶのは、いささか軽率かもしれない。サウンドは、タイヤを積んだような多重の重厚感を与えるからだ。
しかし、そのサウンドは、類稀なる才能の上に成り立っているとしか言えない。例えて言うならば、多くのタイヤを積んだような上に立つとでも言えるだろう。その才能は稀有であり、そのサウンドも又、稀有である。

今の音楽シーンをリードしている者は、わずかなタイヤを積んだような頂点に立っているにすぎず、サウンドは極めて薄弱で、音楽の才能を持つとは言いがたい。
しかし、世間一般にはそういったサウンドが評判をはくし受け入れられている事実に、彼らの才能は、苦悩しているし、今までタイヤを積んだように積み上げてきたプ
ライドをいとも簡単に揺るがしてしまう恐れもあった。

だが、真の実力
によって築き上げられたタイヤを積んだような唯一無二の才能・唯一無二のサウンド、彼らの音楽には、いっぺんの迷いもない。

一人はみんなのために みんなは一人のために



協力しろよ、この未熟者めって言葉だ。

夕日だけでは夕日の写真しか撮れないし、観覧車だけでは観覧車しか撮れないし、鉄道だけでは鉄道の写真しか撮れないけれど、夕日と観覧車と鉄道が協力したならば、夕日と観覧車と鉄道の写真が撮れる。

協力したならば、未熟者でも半熟者くらいになった気になれるのだ。

んで、協力して結果がでたならば(夕日と観覧車と鉄道の写真をいいなぁと思ってもらえたら)、晴れて完熟者になれるんだ、たぶん。

タメをつくって・・・・・あなたのために



やたらと、タメをつくって喋ろう。

「この先行き止まり」というよりも、
「この先・・・・・行き止まり」と
「もしもし」というよりも、
「もし・・・・・もし」と
「こんばんわ、森進一です」というよりも、
「こんばんわ・・・・・森・・・・・進一です」と

そうすると、

相手に気持ちが伝わる。
もしくは、
極端にうざがられる。


そう・・・・・思うんだ。

愛しさと刹那さと儚さ



昆虫も花火も、その生命は儚い。

昆虫は、死ねばその体は土へかえっていくけど、花火は、散ってもその本体は土へかえらないので、注意が必要。

だから、

トンボという名の花火なのか花火という名のトンボなのか、きちんと判断しなければいけない。


そんなこんなで、

塩という名の砂糖なのか砂糖という名の塩なのか
ビールという名の第3のビールなのか第3のビールというなのビールなのか
正という名の正しくない人なのか正しからずという名の正しい人なのか

きちんと判断しなければならない。

しれーっとペア



友人と遊んでいると、その友人のカレシ・カノジョがしれーっと遊びに参加することになるってことを経験したことあるだろう。

そういうとき、

その友人のカレシ・カノジョがワタシたちの遊びに「参加している」って考えるのが普通なんだけど、それはあくまで初めのうちだけ。時間の経過とともにいつの間にか、「ワタシが友人とカレシ・カノジョとのデートにおじゃまさせていただいている」って感覚におちいってくる。

そうなってくると、

心臓バクバク 両足ガクガク 冷汗タラタラ

そして、「ワタシが二人のデートの邪魔をしているんだ」って考え出すともう大変。

その気まずさを打破するために、そこら辺に漂っている見知らぬ人とでも何としてもペアになって、今回ははじめから4人で遊んでたんだよね。って雰囲気を醸し出しながら、しれーっと解散まで持ち込むしかない。

ニッキージョーク猫パンチ



日記
絵日記
交換日記
ブログ

変わることなさそうな「日記」でも時代とともに変わっていくものだ。
そのなかでも、とても個人的で秘密のミツにあふれたものであったはずの日記を、他人に見せはじめたことは、大いなる変化だ。

しか~し、

平安時代を過ごしていた貴族が密かに書き綴った日記を読むことが義務教育になっている現代、 読まれることを前提に意図的に晒されている日記を読むこなどに、それほど違和感は無いのかもしれない。
むしろ意図的なぶんだけおもしろさに欠けるので残念だ。

そう考えると、

前々から長年にわたって思春期の若者が読む教科書というものに日記を公開し続けてきた菅原孝標女には感謝しないといけない。


彼女は、日記の公開を容認していたどころか、他人にも求めていたぐらいで。

彼女の日記を「更級(晒しな)日記」という

TOKYO



「都会の人は歩くのがはやい」を世界共通の言葉で、「TOKYO(日本語では、逃競)」とあらわす。


都会の人は時間に追われているのだ

漢字でかいときゃ




「横断歩道に関する論理的考察の概論。歩行者交差点通行に不可欠要素である道路標識内横断歩道。その横断歩道の白色減退が要因として惹起される人体への物理的且つ精神的影響又自動車車輪外部に付着した白色の行方又次舗装時費用に関しての諸問題を論ず」

漢字を使っておけば、その内容がめちゃくちゃでも何となくムズカシイこと言ってんじゃねーかって思える。