【近代史】紫陽花と佐久間象山の碑~幕末の歴史 | まったり京暮らし

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観光地を避けた京阪神の街歩きや旅の備忘録と、季節の風景などを綴ります♪

しばらくは仕事で通りすがりのややディープな大阪の風景など♪

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木屋町通り沿い。空いてる。
コロナでない時から、河原町通りが
混んでそうな時は、よくこの道沿い
を通ってますニコ
先日、高瀬川沿いを歩いてて、通りに
咲くアジサイを眺めながら北上してると、
一之舟入までの木屋町押小路下るの
辺りに、木札が現れた。
 
佐久間象山・大村益次郎遭難之碑
向こうを見てみると、夜にみると
ちょっと怖いかもしれない肖像付
の碑がある。
高瀬川の向こうにあり、近づけ
ないから、ズームで。
~木札説明~
元治元年(1864)7月11日の夕刻、
この路上を馬に乗って通りかかった佐久間象山
は、刺客に襲われて斬られ絶命。
象山は信濃(長野県)松代藩士で、
洋学・砲術を学び、開国論を唱え、
勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰ら多くの
俊才を教育した。
この時は徳川14代将軍家茂の命で
上京し、海防の相談にあづかると
ともに公武合体策をすすめていた。
時は池田屋事件の直後で、いきり
たっていた攘夷派は、学者象山の説
をも受けつけなかった。
象山、享年52才。
象山の碑の手前には、大村益次郎の碑。
説明~
象山の暗殺から5年後の明治2年9月4日、
この地の東側にあった旅宿の奥座敷
二階で大村益次郎が斬られ、その傷が
もとで益次郎は同年11月5日大阪の
病院で歿した。
益次郎は周防国(山口県)の生まれ、
家は医者であったが、医学とともに
西洋兵学を学び、兵学の第一人者と
なって幕末の長州藩や戊辰戦争に
活躍した。ついで明治政府の兵部
大輔となり、封建軍隊にかわる
近代兵制の創立に努力した。
そのため、不平派士族に襲われたのである。
益次郎、享年47才であった。
大村益次郎が泊まった旅館は、
どこかと調べたけど、場所は
不明だそう。
 
そして、碑のすぐ前には、あじさい。
今、この辺は紫陽花に彩られてるニコ
 
木屋町通り沿いは、歴史深い。
次々と説明の木札もあり、
全部みてると目的地に着けない
から、素通りする事も多いけど、
思いもよらぬ歴史の地であり、
また勉強になった。
戦に次ぐ戦の町だから、珍しく
はないけど、なかなか壮絶な
説明。
近くに佐久間象山寓居址も
あったようだけど、見落として
ます汗
それにしても、攘夷派だらけの
洛中に呼ばれるなんて、時期的
にも治安の悪化した敵国へ行く
ようなもので、今にして思うと
将軍の命でなければ、危険すぎて
断りたい話だったかも、と思った
けど、本人は気にしない天真爛漫
な性格だったみたい?
そんな物思いにふけりながら、通りの
紫陽花が美しく、すぐ忘れて見てしまうニコ
輝くあじさい合格
紫陽花には雨が似合いそうだけど、
こんな日もある。
これは、先週くらいで、今はもっと
咲いてると思う音譜
 

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