話は脱線していくが、そんなこんなで考えていくと「罪」という概念だけでなく我々が無意識のうちに意識してしまう規範やつきつめれば我々の使用する単語のありとあらゆるものまで人間の手によるものに他ならず、その人間とは我々と同じ人間であるということである。つまりは我々は我々と同じ人間の作ったくびきによって縛られているのではないか。

10代の学生なら将来のために勉強しなければならない。勉強しなければ社会に出てまともな生活を送ることは難しいという。

そもそも社会とは何なのか。我々人間が作り出したものである。

ではなぜ社会をと言う概念ができたのだろうか。人間同士が効率的に共存していくためである。

ではなぜ人間同士は効率的に共存して生きていく必要があるのだろうか。そこには種としての繁栄を目的としたものがあるのだろうが、そもそもなぜ種としての繁栄なのであろうか。

いや、そもそも私が言いたいのはそんなことではない。

社会で成功していくと言うことは正しいことなのだろうか。社会をつくったのも人間である。正しいこと悪いことをつくったのも人間である。そもそも正しい悪いという概念をつくったのも人間である。元々この世界には正しいことも悪いことも無いのではないだろうか。それは全て人間の作り出した虚像に過ぎないのではないだろうか。我々がやらなければならないと思っていることやるべきだと思っていることやりたいと思っていること全て人間の作り出した虚像ではないだろうか。我々は人間の長い歴史の中で生み出された文化によってマインドコントロールされているのではないだろうか。

「あれが欲しい」

そもそも欲しいとはなんなのだろうか。独占欲を発揮することだろうか。ではそうだとして独占欲とはなんなのだろうか。それこそ我々が生きている内に植えつけられたものではないだろうか。本来はそこに欲しいというような感情はないのかもしれないではないか。我々の社会の全ては人間の定義したものによって構成されている。そもそもその定義というものはなんなのだろうか。



我々の生きる道にあるものは全て虚像なのではないだろうか。


そもそも罪なんてものは人間社会の中で生まれたものであり、何を持って罪とするかも人間が人間社会の均衡を保つために決めたことである。

我々は幼少のころからやって良いことと悪いことを教えられてきたが、我々の考える罪とはそのような教育課程で認識させられた良いこと悪いことに基づくものである。

そして我々が認識させられてきた罪をいうものは人間社会の均衡を保つために定められた罪に他ならず、社会の均衡を保つために定められた罪というものはつまりは法で定められた罪とさして変わらないのではないだろうか。

「法に背かなければ罪ではないという考えは間違っている」と言うが、「人間としての仁義に背かなければ罪ではない」と言うことはどうなのだろうか。

我々が「罪」と考えていることが本当に『罪』を指し示すことなのだろうか。

このように考えていくと「罪」というものに意味はないということになる。そもそも我々の使う単語そのものが物事の本質を示していると言う保障はどこにもないのではないだろうか。


いわゆる恵まれない子供たちの存在を知りながら三度の飯では飽き足らず間食なんてものを取っているのは罪じゃないでしょうか

私達の行動についていろいろな角度から考えてみればどんな行動も罪ではないしどんな行動も罪になるのではないか。

方針1

それまでと内容が大きく変わっていることがあっても以前の記事を編集することがないようにする。

理由

一応日記だから