さて前回は、
白井貴子に会いに行ってしまった!
ということで、
秋の金沢旅情編をお送りいたしました
金沢兼六園。11月3日は無料開放の日でした
タダで入れて得した気分
楽しかったなー。また行きたいなー
なんて、一週間以上経っても未だに旅行気分抜けきらない今日この頃ですが、
ぼちぼち、本編の続きを書きましょうかねー
*************************
返信をください 〜 その1では、80年代末から90年代にかけてのバンドブーム〜カラオケブームのことを書きました。
このブームがもたらしたものは音楽の”民主化”。
ひとたびマイクを握れば誰もが”主役”になれる時代。
こうした”民主化”の流れは、音楽に限らず他の様々なコンテンツでもみられました。
コピー機の普及と印刷技術の向上により、ミニコミ誌や同人誌が簡単に作られるようになったり、
ホームビデオカメラの普及により、自主制作映画も文化祭の出し物レベルで手軽にできるようになったり。
特にビデオカメラの普及は圧倒的で、カメラを向けるだけで誰でも映像作家になれるし、向けられた人はその映像作品の”主人公”になれてしまう。
「子どもの成長記録」なんて、まさに生まれた時から大人になるまでの物語の主人公としての、誰もが”主役”になれる装置の典型といえるでしょう。
従来は自分が何かを”表現”したいと思えば、多大なコストがかかり、既存のマスコミや舞台に乗っかるしかなかった。
それがテクノロジーの進化によって、高価な”表現装置”のコストダウンがなされ、民生品として一般に広まった時、
そうした敷居の高さの壁によって守られて一部の選ばれた人たちにのみ許されていた”表現の自由”が、一般大衆に解放される。
このテクノロジーの進化が劇的に、それも同時多発的に起こったのが80年代から90年代にかけての時代でした。
そしてさらに、こうした新しいテクノロジーの革新と普及による表現の”民主化”は、90年代の末において決定的な変革がなされます。
それが”インターネット”の登場です。
このインターネットを使えば、どんなに普通の人でも全世界に向けて「自分」を表現することができます。
音楽であろうが、小説、詩、漫画、イラスト、写真、映像などなど、なんでもござれ。
それまではいわゆるマスコミ媒体に載せられなければできなかったことが、誰もが世界中の人々と繋がり、表現者として発信することが可能となり、その資格を万人が平等に得られるようになったのです。
ネット黎明期は”ホームページ”がコンテンツの主体で、”侍魂”や”ろじぱら”などといった個人テキストサイトが人気を博したりしました。
ただ、このホームページ(Webページ)というのはHTMLの知識が必要だったり、ホームページビルダーなんてソフトを使いこなさなくてはいけないなどの敷居が高かったため、すぐにそんな面倒臭いものより知識不要で簡単に始められる”ブログ”にとって代わられます。
しかし、このブログも人の興味を引くような記事を定期的に書き続けなければならないというハードルの高さから、より気軽にエントリーのできる、仲間とのコミュニケーションが主体の”mixi”といったSNSへと流行は移ります。
さらに、メール感覚で仲間に「自分」を発信できる”Facebook”や、不特定多数へ独り言の短文を発信できる”twitter”。
さらには、考えて書くのが面倒な文章さえ不要な、一発映像や動画で「自分」を表現できる"Instagram”へと、次々と変遷を続けていきます。
こうしたインターネットの歴史を語り出せばきりがなく、今回はそれがメインの話ではないので、かなり端折っていますが、
ここで注目したいのがインターネットにおける表現のあり方もまた、より簡単に気軽に万人が参加できるものへと敷居がどんどんと下げられていく方向にあるという点です。
特に何の特技や才能があるわけでもなく、主義主張があるわけでもなく、何か表現したいものがあるわけでもなくても、「自分」を世界へ向けて発信することができる。
この方向の行き着く先は、コミュニケーションによって伝える表現内容や質はどうでもよくなり、ただ相手と繋がっているというコミュニケーションそれ自体が目的となることです。
LINEのスタンプなんかはその最たるもので、伝える内容は既成のハンコ絵で簡略化してしまえるほどどうでもよく、ただお互いにそのスタンプをやり取りしたという関係性のみが意味を持つという典型でしょう。
先に私がカラオケブームが音楽の”民主化”だと語った時、すごい違和感を感じた人も多かったかもしれません。
そこらのおっさんのカラオケとアーティストの魂を込めた楽曲を一緒にするなと。
そこらの子どもの落書きと崇高なアートを一緒にするなと。
そこらの「子どもの成長記録」と莫大な予算をかけた劇場映画を一緒にするなと。
しかしこの表現の”民主化”というのは、ただ誰もが表現を”発信できる”手段を得た、というだけのことであって、そこでの表現の規模や内容や質はまた別の話。
プロの表現もアマの表現も、質を問わなければ同じ”表現物”にすぎず、”民主化”によって厖大な数の表現が生み出される玉石混淆のカオス状態においては、全ての表現物は”情報”としてフラット化されてしまう。
そしてこのフラット化された状況では、価値基準も絶対的なものから相対的なものへと移行する。
有名アーティストの歌声より、隣の気になるあの子の歌声の方が心地よかったり、
高名な作家の書く物語より、名も無い人の日記の方が興味深かったり、
娯楽超大作映画より、普通の学生が遊びで撮った動画の方が面白かったり。
相対化された価値基準においては、有名であるとか作品の質の高さなどというのは一つの評価要素ではあっても本質的な問題にはならない。
その価値は、ただ「”私”がその表現物を面白いと思うか」という、”私”と”表現物”との”関係性”。この一点のみが問われることになる。
だからその評価は非常に個別的で、個人的なものとなっていく。
社会学者、宮台真司が1994年出版の著書『制服少女たちの選択』で言及した、社会の”島宇宙化”という現象。
同じ価値観を持つ者同士だけでコミュニティを作り、それぞれのコミュニティは互いに関係を持とうとせず、孤立化して島のように点在している状態。
この社会現象が顕在化したのが、カラオケブーム〜アムラー〜コギャルの流れと時を同じくしているのが非常に興味深い。
相対化された価値観においては自己と他との”関係性”のみが意味を持ち、その関係性の輪から外れたものは無意味である、
とする”島宇宙化”。
この現象は、00年代以降も”トライブ(部族)化”、”スクールカースト”、”タコツボ化”と言葉を変えて、ネット社会の発展に伴って、現在も加速度的に深化を続けている。
それらの現象のキーとなるのが、高度化された表現の”民主化”であり、そこからの”総主人公化”なのではないか、と私は考えています。
そしてこの”総主人公化”現象がもたらすのが、「自意識の肥大化」。
ここで話は先回の記事、返信をください 〜 その2に繋がってきます。
「自意識」とは他者との関係性において芽生えるものであり、その関係性の循環の中で高められていくものである、と書きました。
そうした自意識を育む”関係性”が、島宇宙のように閉ざされたものとなり、且つこの世で唯一信じられる価値基準となってしまった現代において、誰もがみんな特別な”主人公”たれ、と要請され続ける社会。
しかし、その非常に狭く曖昧な価値観の中で、自分に確たるものを持てないまま、ただ自意識だけを、中身が空っぽの風船玉のように膨らませ続けている私に、”主人公”たり得る、人とは違う特別な何かがあるのだろうか?
人とは違う何かを表現して特別であろうとするには、それ相当の才能や技術や運や努力が要求されます。
でも大多数の人はそんな才能も技術も持ち合わせてはおらず、凡百の中に埋もれてしまいます。
私の仕事は、別に私でなくてもできる仕事です。
私は彼女の夫ですが、別に私でなくても彼女を幸せにしてあげられます。
私は彼らの仲間ですが、別に私がいなくても彼らは仲間です。
なんら特別ではない、取り替え交換が可能な空っぽな私。
しかしそれを認めてしまえば、今のポジションは他の人に奪われ、大きく膨れ上がった自意識の風船玉は破裂して自分を保てなくなってしまうでしょう。
だからみんな必死に今の関係性にしがみついて”仲間”にこだわる一方で、マウントを取り合って人より上位に立とうとし、自分が選ばれた特別な存在であるかのように虚飾する。
そんな、他人との差異でしか自分の特別さを担保できない空っぽな私は、
「私はあなたとは違う」「私はあなたとは違う」
と叫びながら”タコツボ”の中へ逃げ込む他はない。
そして、その”タコツボ”の中に隠れながら「私はここにいます」と全世界に向かって手を振り続けている。
私が先回に言った、「肥大化した自意識の、一方通行のコミュニケーション」
とはそんなイメージ。
このインターネット上には、そんな「私はここにいます」というメッセージが無数に溢れている。
そしてそのほとんどが誰にも読まれていない
このブログだって、そう。
こんなにも読まれないものか〜と我ながら感心するくらいアクセス数は少ない
でも読んでくれている人も確実にいるわけで、本当にありがとうございます〜 茜さんもいつもありがとねー
でもそれも当然なわけで、このブログはなんの宣伝もしていないし、
そもそも、一体誰に向けて書いているのかよくわからない、完全に自己満足の「極々私的な」趣味のブログなので。
前回の番外編も、私が白井貴子のライブを聴きに金沢へ行ってきた。サインもらってうれしーってだけの内容なので、私にも白井さんにも興味ない人にとっては、なーんの意味もない情報なわけです。
そんなブログを結構な時間と労力を費やして書いているのは何のため?と訊かれたら、
「自分のため」と答えるより他にない。
「そんなのチラシの裏にでも書いてろや〜」
って話ですよね。
チラシの裏 今でも裏が白紙のチラシってあるのだろうか?とまでは言わなくとも、日記帳にでも書いてりゃいいんですよ。
なのに自己満足でしかない、誰にも読まれない駄文を、匿名でわざわざ全世界に公開しちゃってる。
知られたいのか、知られたくないのか?
自分がブログやってること、親兄弟にも、友人にも、当然会社の同僚にも、誰にも言ってません。
知られてしまうと、本音が書けなくなってしまうと思うので。
それは、自分の空っぽさを知られるのが怖いからかもしれません。
私はいまだに自分が何者であるかわからずに、ただ生きてるだけで、人生の目標もビジョンもまるでありません。
自分で自分のことが説明できない。
幸いにも私は会社員なので「〇〇会社の〇〇です」ということができますが、それすら無くなってしまえば、怖すぎて多分ひきこもりになってたでしょうね
だからリアルではそんなこと、口がさけても言えません。
もし知られようものなら、この社会において今私が座っている席は、即刻他の誰かに取り替えられてしまうでしょうから。
でも誰かに知ってほしい。
私が何を大好きでいて、何をして、どんなことを考えているのか。
そして認めてほしい。
そうやって私が私として、ここに存在していることを。
まるで絶海の孤島で一人、書いた手紙を瓶に詰めて海に流しているかのようですね。
あるいはかくれんぼをしている子どものよう。
それも、鬼がいないかくれんぼ。
誰も見つけてくれる人がいないのに、一人、息を潜めて見つけてもらえるのを待っている。
リアルでは決して言えない「返信をください」という言葉。
そんな孤独の悲痛な心の叫びを歌詞にして、
それをロックの軽快なメロディにのせて、
白井貴子が元気だせよと明るく歌ってくれる。
北山修の書く歌詞はとても切ない。
この「涙河」のアルバムに収められている曲の多くは失恋の曲です。
「花のように」は、花のように美しい二人の恋は、花のように儚く終わるという歌。
「あの素晴らしい愛をもう一度」は、二人が愛し合っていた時はあんなにも世界が輝いて見えて、永遠だと思っていたのに、もう今は心と心が通わなくなってしまった、という歌。
「さらば恋人」では、いつも幸せだと思っていた二人が、いつの間にか心がすれ違い、離れてしまった。
「白い色は恋人の色」では、遠く過ぎ去った故郷の恋人との思い出を懐かしむ。
「初恋の丘」では、結婚が決まって嫁ぐ時、本当に好きだった初恋の人との思い出が蘇り、純粋だったあの頃に帰りたいと願う。
いずれも二人の心が通い合っていた儚くも美しい思い出を振り返るという歌です。
それが「風」という曲では、そうやって輝かしい過去を、”何かを求めて振り返っても、そこにはただ風が吹いているだけ”だと、その虚しさを歌います。どんなに素敵な思い出であっても、過ぎ去ってしまえば全て幻。風のように消え去ってしまう。
だから私たちは前を向いて、”振り返らずただ一人、一歩づつ。振り返らず泣かないで歩くんだ”と。
それでも奥歯を噛み締めて、涙をこらえて歩み続けても、いつかは心が折れるような辛い出来事にでくわすだろう。
そんな時は、もう”泣いて、泣いて、怒り狂って”でもいいから”生き延びて”いこうよ、と。
そうやって「涙河」を超えた先は霧の晴れた輝かしい未来が待っているはずだと歌う。
そして「いるだけ」の幸せ。
危機を乗り越えて生き延びたからこそ、知ることのできる生命の尊さ。
私に命を与えてくれて、ただここに「いるだけ」でいいんだと存在を認めてくれた、
この大自然に感謝の祈りを捧げてこのアルバムは終わります。
北山修はインタビューで「返信をください」という曲について次のようなコメントをしています。
僕は作詞家であるから、歌でしか言えないことを発信し続けることができている。だから、人生のための歌であって、歌のための人生ではないっていうことを、最後の最後まで主張し続けたいね。私のための歌、あなたのための歌であって、みんなのための歌じゃない。
https://entertainmentstation.jp/35977
「売って儲けるため」でなく「誰かに認めてもらうため」でもなく、そんな肥大化した自意識を乗り越えた先に、
まずは「自分のため」に書き、それがどこかにいる「あなたのため」になるかもしれないとしたら、
それがたとえ誰にも読まれないとしても、所詮「一方通行のコミュニケーション」であったとしても、
捨てたもんじゃないなと思います。
「涙河」アルバムの最後に収められているスペシャルトラック。
「さよなら青春」では次のような一節があります。
たとえ花束をもらったところで
アリガトウのひと言で今日は別れよう
あなたがどんなに思ってくれても
わたしにはわたしの あなたにはあなたの
人生がある
コンサートが大いに盛り上がり、会場が一体感に包まれたとしても、それは幻想に過ぎない。
そんな私とあなたが熱い友情を交わし、共依存的に繋がりを持ち続けたところで、お互いに幸せにはなれない。
そんな脆弱な”関係性”に依存するのではなく、自分の存在は自分で認めて、自分の人生を自分の足で歩むのが大人になるってことだ、と歌っているのでしょう。
誰かに見つけてもらうのを待っている子どもではなく、そんな自意識の殻を破って、堂々と自分の人生を歩みだす。
私もそんな真に「自分のため」の文章が書けるようになれたらと思います