なんばパークスシネマにて『愛する人』を鑑賞してきた。
まず、久しぶりに感じたこと。
邦題の裏にある、原題。
あえて確認しなかったことが、これほどの衝撃に繋がるなんて…
これほど言葉で、ましてや文字で伝えるのが難しい作品は、率直にいって珍しいと思った。
漠然としたものはある、けれど…
男性である自分と、きっとこの作品を鑑賞した女性の見方や視点は異なって然るべき。
余計なお世話かもしれないが、私の知り合いの多くに是非とも推奨したい内容だった。
自分が母親の身体のなかで、ずっと聴き続けていたもの…
男の子である自分が、もしかすると唯一、(女の子として生まれようが)無関係に、“等しい”リズムで応えつづけたもの。
母親が子供におくる愛情、いや「愛」という何か捉えどころのない、原始的な背景にあったもの。
理論や方式に基づかない、すべてを超越することを許された「愛」とでも表現したいところ。
大いに議論の巻き起こるところ(実際にあった)であるが、以前、母親の介護に疲れた息子が川べりで母との心中を試みたケースがあった。
結果的に母は死に、息子は生き残った。
この事件のことを思い出した。
奇しくもこの作品に登場する娘のエリザベス(ナオミ・ワッツ)は弁護士だった。
もちろん、ストーリーとして裁判が起こることなど何もない。
しかし、法律という人間が事後的に造り上げてきたものが、ときとして守られるべき人間をも苦しめる。
そういうどこか漠然としつつも、潜在的に不快で危険性を孕んでいることに目を向けざるを得ないような心境になる。
ヒトとして生まれ、生あるものとして育ち…
あらゆる環境で“無理やり”にでも、人間的であり動物的な意志に反した行動をとらざるを得ない。
前述の裁判では、裁判官が涙しながら被告に向き合ったという。
そういう意味では…
エリザベスの母親カレン(アネット・ベニング)の表情が移ろい、そして私たちの心に訴えかけてくるものはとてもシンプルで温かかった。
同時に、「(結婚の予定は)まったくない」という娘も、“決定打はない”(ましてや、子供を産めないと思っている)ものの、どこか本能的に子供を授かりたい気持ちになっていく様子を“当たり前”だと思えたこと。
母と娘は、じつに似ていた。
発言の間合いだったり、ときとしてヒステリックな感情に気付いて嫌気を覚えるところなんて顕著だった。
私たち観衆からすれば明らかな他人の善意までも、ふいにしてしまう。
私は個人的にも、彼女たちの行動にどこかネガティブな印象を抱いていたのも事実だった。
けれど、彼女たちが冷静になれる瞬間こそ、祖母から母、そして子から孫へと続いていく生命の系譜だったようだ。
時間をかけながら…
周りの幸せを妬みながら…
自問自答の末に辿りついた「母(娘)に会いたい」という思い。
それであの結末であった。
最後の20分くらいだろうか…
これほどまでリアルに、何かを焦らされたのは久しぶりだ。
いったい何に焦る気持ちが芽生えたのか…
それは紛れもなく、母親への感謝を伴って表れる愛情であり、焦っているのではなく、「(親を)大事にしよう」という感情だった。
何もしてあげられてない、何も恩返しできていない…
そんな想いに至ったことは何度もあった。
しかし、そのたびに母親がかけてくれた言葉を思い出したら、上映終了までずっと涙が流れて止まらなかった。
「ずっと元気でいて、やりたいことをやっていてくれれば幸せ」
エリザベスの遺した生命は、たしかに受け継がれた。
養母のもとを訪れ、エラ(エリザベスの子)と戯れるカレンの表情は、本当にこの世の最上の幸せのようであった。
一度はあきらめ、呵責に耐えられずに自暴自棄になり厭世感で一杯になった心の器を…
新たな瑞々しい生命を受け入れるための、“それだけ”の器にすることが幸せなのだろう。
最後に、カレンがエリザベスに贈った最後の手紙を引用したいと思う。
<見てみたかった、
違う髪型をしたり、新しい靴をはくあなた……。
初めての生理はいつ?
助けてくれる人はいた?
誰か説明してくれた?
私が聞いた夜の雨音を、あなたも聞いた?
あなたの心の安らぎは?
あなたを何も知らない。
仕方のないことね。
でも今日、エラに会えたわ。
あの子はまるで空白の38年間を一瞬に飛ぶ鳥。
過ぎ去った戻らない年月を
突きつけられるよう……。
でも、すべてはもう過去のこと。
今はエラがいる。
神の祝福を。
エラこそ心の安らぎよ>
この手紙から、みんなは何を思うのだろうか?
男性である私が素直に思うことは…
母親(両親)を大切に思い続けること、そしてパートナーを自分の愛情で包みこんであげたいということだ。
今はまだパートナーもいない、けれど…
(フィクションを取り上げていうのもどうかと思うが)この作品を鑑賞し、私が男性としての視点で捉えたものを、“そのまま”女性として感じてくれた人であることを望みたい。
それだけ本当に印象深い作品になったということだ。
女性として生きる目的ってなんだろう?
それから逃げずに、ちゃんと向き合えば…
こんなに心の器は輝きを放つのだ。
どんなに現実離れしたことだと非難されようが、私はそれを求め続けると思う。
作品では陰に隠れ気味だった男性陣の表情や仕草も、きっとそれを物語っていたに違いない。

仕事、女子会、婚活、セックスレス…
難しく(?)考えた結果がそのあり様だと思うと、如何に社会が自然から乖離しきったものかを痛感する。
最後にもう一度だけ…
これは「女性のための作品」である。
エリザベスとカレンが(双方を求めて)動き出したのは…
現代社会に対する、とても優しく温かい警鐘なのだと思う。
母と娘は会えなかった。
何十年離れていようと…
たったひとつのミス(封筒の配置)で、それが消滅してしまった。
さあ、今にも動き出すべきじゃないのか?
幸運にも“母として”の本分に気付いたカレン、そして“女性として”母親の偉大さと子供を産むことの幸せを求める決心をしたエリザベスであったから…
もう動き出していた。
だからこそ出会えなくとも、優しく穏やかな気持ちで先ほどの手紙が書けたのだと思う。
もちろんエリザベスのリアクションなど無いが、容易に想像はつくだろう。
もはや母と娘の話であるからこそ、私たち男には踏みこめないが…
この神秘性こそが母性なのだと信じたい。
そんな視点こそが、自分にとって最良のパートナーへの鍵となるのだろう。