人間を理解するということ | Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

空想家な私が死を迎える前における遺書としてのブログです。
 知的好奇心のみが私が未だ生きている理由であり、それらがアウトプットされる場面を空想しながら書いています。
 余命に予断が許されず、文章の保管場所としてブログを書いています。
 

 この時期になると精神的にも身体的にも不安定になります。

 

 どうしても納得できないのが、一度解雇して、再び新規雇用を繰り返すというシステムです。なぜこんなことをするのかと考えこみます。予算が減ってきたら人件費を減らさないからいけない、継続雇用にしていたら無期雇用請求権が発生してくる、更新制だと不利益変更ができない、などが思いつきます。しかし、これらは解雇することでのメリットを無理やりに探し出している状態です。

 

 歴史や社会といった学問を探求する時に、つい忘れがちになることが「人間を理解しておく」ことなのだと、このところ思い知る機会が増えてきました。100%完璧に論理的ではない人間。感情という得体のしれないものを持っている人間。

 歴史や社会のなかで見つかる出来事には論理だけでは理解できない部分があります。それを無理やり理屈をつけてしまうことをやりがちになってしまいます。心理学的には、結果を見てから理論づけをすることも人間の習性なのかもしれません。

 常識というか、普通にリラックスして考えてみて、明らかにおかしい、一般的に人々はそんな行動はしない、これは怒るだろう、これは笑うだろうという一般的な反応が実はもっとも大切で、どんなに複雑な事象を分析する時も忘れてはならないのだろうということです。

 

 要は、人間として当然の感情を無視した制度は長続きしないことを表現したかったのですが、話が余計に複雑になりました。

 人を解雇するという行為がその人やそれを見ている聞いている人々にどのような影響を与えるのか、その面を考慮しないことに愚かさを感じるのです。さらには、今の仕事は単純作業のようなものでもありません。知識とスキルの積み重ねが要求される内容です。しかし確実にすぐ解雇される状況では積み重ねの大事さを無理やり誤魔化して、自分に嘘をついて、一生懸命に働くことを抑え込みます。つまり自分の仕事はたいしたものではないとして必死で手抜きします。この仕事が大切なものだと意識すれば、かえってジレンマに陥り、苦悩してパフォーマンスが余計に落ちてしまうからです。

 「平常心で働くためには手抜きをする」なかなか奇妙なロジックですが、たどり着いた答えです。

 

 無理やり理論的に考えてしまうと、最初に述べたメリット部分のように、制度を作り出した側の論理にしか目がいかなくなってしまいます。これは制度の理解であって、人間の理解ではないのでしょう。

 

 最近は文化としての宗教についての知識を高めようとしています。非合理的で科学では証明できないことが宗教だと呼ばれていますが、その非科学の中に人間の心理、人間としての科学が埋め込まれているように感じるようになったのがきっかけです。

 私の考えが正しいのかどうかという恐怖心が、私の好奇心の源泉でもありますので、私自身の間違いを大いに恐れて、学んでいる状態です。

 

 まあ、とはいえ、解雇されるのだから、どうしたものか、と単純な悩みも見逃せませんね・・・。けっこう新しいものを生み出してきたつもりですけど、非正規雇用には評価システムが無いのだから、仕方のないことでしょうかね。自分のしてきたことがどう評価されていたのかを知ることもできないので、次に活かすこともできないのが、隔靴掻痒です。