精神保健の専門職が嫌悪感を覚えることとは? | Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

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空想家な私が死を迎える前における遺書としてのブログです。
 知的好奇心のみが私が未だ生きている理由であり、それらがアウトプットされる場面を空想しながら書いています。
 余命に予断が許されず、文章の保管場所としてブログを書いています。
 

 

在りし日を おぼろげながら 思い出し それパラノイア 消された記憶

 

 社会に都合の悪い記憶は消される運命にある。薬物の作用なのか、記憶状態のまずさを感じるようになってきているので、書き記しておく。

 

 

 

 私の経験でからすると、「精神保健の専門職にある人々は、精神障害者が自分たちと同じレベルに存在することに対して嫌悪感を覚えている」と言えるでしょう。

 

 私のこの説に対して反論は多いとは思いますが、精神障害者当事者とされてからPSWとして業務経験がある者として、こうした考えに至るにはそれなりの根拠はあります。なかなか文章で列挙するには複雑かつ残酷なのでここではしませんが、この説に関しては憤りを持ちながら、温めています。

 

 こうした扱いを受け続けた結果、私がどのような感情や考え方を持っていくのでしょうか。それを以下に少し書いてみたいと思います。過激で人権を踏みにじる表現になるかと思いますが、私自身が人間扱いされてこない故の結果なのです。

 

 

「人類補完計画」

 ずいぶん前のことですが、新世紀エヴァンゲリオンというアニメ番組に出てきた言葉です。全話を鑑賞したのですが、私には「人類補完計画」という計画の目的や内容を理解することはできませんでした。ただこの言葉の響きだけが強く印象に残り、今でもふと脳裏を過ります。

 

 この計画の詳細は分かりませんが、こうした計画が存在するということは、人類に決定的に足りないものがあるということでしょう。そしてこの計画を遂行するためにはすべてを犠牲にしても良いほどの覚悟が必要であることもわかる。

 

 そこにつながることとして、「社会のリセット」という考えがある。これは私の完全なオリジナルというわけではない。

 アメリカ大統領選挙におけるトランプ現象やポピュリズムというものが、人間社会のリセットというものを私に想起させた。

 

 当然ながら私には守るべきものもなく、ただ一人で存在しているだけである。ハムレットが悶えたように、この世界にいるのかいないのか、そのレベルでの問いを繰り返す存在なのである。

 

 

 桜咲く 一寸先に 青ざめる

 
 
 昨年起きた事件において起訴された被告に「障害者の存在を否定する」言動が背景にあったことが大きく報じられました。この報道が真実を伝えているのか判然としないのですが、その言動に対して「差別主義」というレッテルを貼り、大きく非難されました。
 
 私が不思議に感じたのは、障害者の存在を否定することは今までの社会の中で普通に行われてきたことです。
 障害者福祉政策に就労支援というものがあります。現在では政策の中心的存在にもなってきています。その理由は障害者が社会によって費用対効果が低いなどの理由をつけられて、排除されてきたからです。
 政策として対応しないといならない状況であったということです。
 当然ながら、それらの政策の効果には疑問もあります。
 
 ともかくも、そうした扱いを受け続けている者が、社会をリセットしたいと願うのは普通のことなのです。
 「リセットする」というのはすべて破壊してしまうという過激な感情でもあります。
 
私が言いたいのはただの一言です。
 
 「障害者の存在を否定するという思想は、社会の通念である」であり、異端者の思想ではないのです。
 そもそも社会は人間を非正規雇用という人件費の対象ではなくて消耗品費に計上して使用し、いらなくなったら捨てるということを繰り返しています。非正規雇用になったことに対しては自己責任の一言で片づけています。
 
 震災で家や仕事を失った人々に対しては「絆」を強調し、派遣切りで家や仕事を失った人々に対しては自己責任を求めています。
 
 対象は同じ人間でも、多数派のさじ加減で生殺与奪の権が生じているのです。
 
 標題の意義は、正義を掲げる専門職も、クライエントである精神障害者を見下していることを言っています。
 同じ人間ではないという思想です。それは人間としての存在を否定する思想です。現代はその思想が正義になっているのです。
 私の力では覆せない。リセットすることは難しいのです。「人類補完計画」を策定したくなる充分な理由になるでしょう。