相変わらず苦しみに耐える日々でして、記憶も不安定になっています。私の動向は社会には影響ありませんので、関係のない話ではあります。
司馬遷の史記というと歴史書の代名詞というべき偉大なる書物です。日本語においても史記が出典である言葉は数多く、日常的に使っている言葉でもこの史記によってその意味が定まってきたという例は枚挙にいとまがありません。
英語ではOxford English Dictionary(オックスフォード英語辞典)に収められている語句で、引用語句として最も多いのはシェイクスピアになるそうです。2番目に多いのはThe Authorized Version(1611年完成のジェームズ王聖書)です。
史記とシェイクスピアやジェームズ王聖書ではかなり年代が異なりますが、英語のほうが国際言語として他の言語の影響を強く受けてきたことも考えるべきことでしょう。
さて表題の言葉ですが、書き下し文にしてみますと「いわゆる天道、是か非か」となります。意味としては「天命というものは正しいのかそうではないのか」という疑問を投げかける文となっています。史記の伯夷伝にある言葉で、司馬遷が伯夷の人生を振り返って残した言葉になります。伯夷は清廉を貫いた末に餓死しています。たとえ清く正しい生き方をしても報われるわけではないのです。
「努力をすれば報われる」という神話は広く信じられています。実際はどうなのでしょうか。努力の程度を計測する指標を作ることは困難ですから、実験する方法が分かりません。
そして時代に翻弄されることは常にあります。その時々の社会状況によって人間の運命が決まることになります。この天道は公正なのでしょうか。
人間を使い捨てる時代において、この表題の言葉が私には強く響きました。