自己責任社会がテロリズムを推し進める | Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

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空想家な私が死を迎える前における遺書としてのブログです。
 知的好奇心のみが私が未だ生きている理由であり、それらがアウトプットされる場面を空想しながら書いています。
 余命に予断が許されず、文章の保管場所としてブログを書いています。
 

政府が「共謀罪」の法案作成を急いでいます。

 目的は「テロ対策」とされています。

 しかし、共謀罪の成立が本当にテロ対策の効果があるのでしょうか。

 効果はあるとしても、法律で規制し刑罰を設けることだけで解決するという姿勢は正しいのでしょうか。

 

 「なぜ日本でテロリズムが起こるのか」

 この命題を研究することなしに、対策を練ることはできないと政府も認識しているはずです。

研究によって導き出された課題を解決することは、また何かしらの課題を生むとしたら、課題の解決に着手しない理由にはなります。

 

 時事問題というものはまずシンプルな面から考えることから始めるのが私の手法です。それでも最後は複雑な思考の迷路にはまってしまいますけれども、思考を進めてみましょう。

 

テロリズムとはどのような行為のことを指すのでしょうか。

 terrorismを直訳しますと「恐怖政治主義」となるかと思います。terror(恐怖)を用いて政治を動かす、という意味です。

 こうした恐怖政治というものは歴史上珍しいものではなく、権力者からするとスタンダードな政治手法です。

 ただし、今日でいう「テロリズムは権力者に対して行うもの」と考えられています。権力者が行っている政治に不満があり、それを変化させるという目的があります。

 ですから「テロリズムが起こってくる=政治が上手く機能していない」と見做すべきです。

 

 このように考えると解決すべき課題は政治のほうにあることになります。政治課題の解決には着手せずにテロリズムという行為だけを抑え込むという手法で臨んでいるのです。

 

次に「人々はなぜテロリズムという方法を選択するのか」を考えてみます。

 社会に恐怖を与えることで政治を変えていくのですが、それ以外の方法ではダメなのでしょうか。

 政治を変えるというとまず「選挙」という方法が思い浮かびます。君主が政治権力を握っている場合で武力に拠らないとなると「禅譲(君主が自らその地位を譲ること)」という言葉も思い浮かびます。

 歴史的に禅譲の場合は裏で武力に拠る圧力がありました。では選挙の場合はどうでしょうか。世界各地に目を向けていると、表向きは民主的な選挙でも武力が暗躍しているケースは見受けられます。

 

 そして日本では、実際に武装しているわけではなくても社会権力を握って脅しをかけているのではないでしょうか。

 その社会権力というのが現代社会に広がっている「自己責任社会」なのだと私は考えています。

 すべての責任を個人に押し付けることで、選挙による政治変革を無意味なものに変えています。選挙による結果の責任は主権者である日本国民全体にあるはずなのですが、その責任を個人に押し付けているのです。政治によって悪い結果に陥ってもその責任は個人にあることになります。言わば、「主権者の分断」です。

 

 一部の主権者に責任を負わせて、多数派の主権者が政治における利益を享受する。利益を搾取される側は「自己責任」を負わされて政治改革は許されません。

 かなり分かりにくくなってきましたが、選挙制度におけるマイノリティー問題を「自己責任」という理屈で放置しているという事実に、私は辿り着きたいのです。

 選挙否定の観念はこうした順路で生まれてきているのではないかと考えました。選挙投票率の低下は、抗うことのできない権力構造生成の結果だと思います。

 

 こうして消去法によって残された政治変革手法がテロリズムになるのではないでしょうか。

そうだとしたら、テロ対策というのはテロ行為を謀ることに刑罰を与えて取り締まるのではなく、テロ行為ではない方法でも政治改革が可能であることが人々に伝わるようにすることになるのです。

 自己責任で困窮する人々を追い詰めて、叛乱は権力で鎮静するという構図は、誰がテロリストなのか、ということが分からなくなってきます。

 

 

携えた 銃を先に 撃つだけで テロリストと呼ぶ 根回し策士

 

・・・うまくまとめきれませんでしたね・・・