私の遺体を誰が発見するのだろうか | Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

Last will and tastament 「私の遺書」解らないことを分かりやすく

空想家な私が死を迎える前における遺書としてのブログです。
 知的好奇心のみが私が未だ生きている理由であり、それらがアウトプットされる場面を空想しながら書いています。
 余命に予断が許されず、文章の保管場所としてブログを書いています。
 

孤独死、孤立死...これも英訳は難しそうです。

karoshi(過労死)と並んでそのまま世界共通語になるかもしれません。

 

 今月で私の独り暮らしも20年になります。

結局、友人関係や恋愛関係を構築することはできませんでした。

この孤独な20年、我ながらよく耐えてきたものだと思います。その代償は大きなもので、精神、身体ともボロボロな状態です。

 

 お迎えを待つばかりとなると、「孤独死」という言葉が常に脳裏を過ります。

「孤独死」というのは法律用語でもなく、決まった定義はないのですが、「誰にも看取られることなく亡くなり、死後も遺体の発見が遅れるような死に方」のことになります。

 統計データも全国的なものはなく、東京23区で年間2000~3000人くらいという話を聞くくらいで、これもどれほど確かな情報なのか分かりません。

 遺体が発見されても多くは「変死」として処理されているようです。遺体の損傷が激しいため、死因の特定も困難なのでしょう。

 

 私の場合はどうなるのでしょうか。

 自宅で力尽きた場合、誰が私の遺体を発見できるのでしょうか。

 思いつきません。

 まぐれ当たりでしか発見できないでしょう。

 自家融解し尽くして、蒸発し尽くして、常温では固体でしか存在できない元素のみが残った状態というのを想像しています。

 

 孤独死に関しての話題は予想以上に少ないように感じます。あまり触れたくない話題なのは分かりますが、身近なことなので多くの人々が気づいているはずだとは思いますけど。

 

 ひとり逝き あの世で何に 逢わんかと 探し求める 現世のように